クランクブギ CRANKBOOGIE

自転車と、ブルースと、旅と。

ロードバイクで、ときどきヨーロッパ

本篇は雑誌の紀行文コンクールに応募するために、今までの欧州サイクリング記事をひとつにつなげて、その後のロングライドをまとめたものです。既出記事に比べて後日譚の続きが少しありますが、ほぼ同じです。自分のやってきた事を振り返り、これからを考える良い機会になりました。非常に長文なので、お時間のある時にお楽しみください。なお、コンクールは落選しました。

 

1.ハンガリー、1986

地平線が見渡せるような広い大地を自転車で走りたかった。

社会主義国がどんな所か見てみたかった。

いろんな恐怖話を聞くアエロフロートに乗ってみたかった。

初めての海外サイクリングにハンガリーを選んだのは、そんな理由から。

行くと決めた後はガイドブック始めハンガリー動乱に関する本まで読破し、情報収集した。

ゴールデンウイーク。明石から新幹線で輪行して成田、ソビエト連邦モスクワ経由でブダペストへ。

飛行機は話に聞いていた程にはボロくなかった。眼下に広がる風景は何時間もツンドラでそれは圧巻だった。スチュワーデスは噂通り立派な体格の年配の方ばかりだったが、鬼のような形相で怒られることはなく、親切だった。自分が品行方正な乗客だからであろう。

 

モスクワでトランジット。税関の係官がボールペンをくれ、タバコをくれというのをひきつった笑顔で断りつつ、照明が暗いトランジット用ホテルで一泊した。

翌日、早朝の飛行機を待つ間、建築関係の仕事をしているアルジェリア青年と話をした。古い建築を見に来たのだがソ連では肌の色で何回も差別を受けたと静かに怒っていた。

その時、有色人種は俺達だけで、周囲が我々を避けている雰囲気は確かに感じていた。

彼はラジカセで音楽を聴き始めた。

“get up, stand up, stand up for your right”

俺は初めてボブ・マーリーの歌を聴いた。

 

ブダペストは快晴だった。心配だった自転車はちゃんと無傷で出てきた。街中までバス。到着したバス停で自転車を組み立てると気分は高揚してくる。まず本屋で英語・ハンガリー語の携帯辞書と地図を買った。それからスーパーで軽食を買って公園で食べていると、小学生の男の子2人組が興味津々で見ている。早速辞書をひっぱりだして「ヨーマシュトキーバーノク!」(こんにちは)と言ってみる。笑い声と共にいろいろな言葉が返ってきた。

おっ、通じとるようやんか! しばらく変な顔のしあっこをしたりして、遊んだ。

おかげで、モスクワ空港から固まっていた気持ちが一気にほぐれた。

よしっ、ブダペスト観光は後にして、一気に目的地のホルトバージまで行こう。

そこは馬の生産地だ。モンゴルから続く大平原の西の果てである。

列車に乗り込む。結構混んでいて客室に輪行袋は持ち込めなかった。自転車を放って置くのは不安なので一緒にデッキで座っていた。

途中からトルコのオジサン3人が乗ってきた。どこかに出稼ぎに行っていたが久しぶりに帰るのだという。最初はカタコト英語や身振りで適当に仲良くやっていたのだが、その中の一人が酒を奢れと言い出し、断ったことで一気に険悪になってしまった。彼らから見れば日本人は全員金持ちであろう。奴は首を切るマネまでしだした。ヤバイ・・・

他の二人は困惑した感じで成り行きを見ているが、止めるわけでもない。

その時、列車が止まった。

 

俺はデイパックと輪行袋を引っつかみ、駅に飛び降りた。

オジサンたちが急に慌てて、待て、この駅はまだお前の行き先じゃないぞ!と教えてくれているが、これ以上一緒にいてもこじれるだけだ。

列車を見送りながら正直ほっとしたのと、逃げるしかなかった悔しさと、怒りが入り混じった感情が渦巻いていた。駅名の看板を読む。やたら長い。トロツクケントミクロス。それがその土地の名前のようだ。きっとトロツキーだ。社会主義国なのだった。

気を静めながら次の展開を考える。

俺はハンガリーに来たんだ。外国人同士のトラブルで旅を台無しにしてたまるか。

次の列車を待つのが順当だが、予定があるわけじゃなし。今日はここで一泊してみよう。駅員にホテルはある?と訊いてみたが、首をすくめて、指差すだけだった。

きっとそちらの方向に街があるのだろう。

 

その方向に自転車で10分程走ると確かに街があった。小さな街だった。ホテルを探しながらウロウロする。午後3時を過ぎている。そろそろネグラを確保したい時間帯だ。なんか、宿は無さそうだぞ・・・と、小さな看板にギムナジウムと書いてある建物を見つけた。学生寮だな。欧州では夏休みなどに旅行者が泊まれる学生寮がある。泊まったことはないし、今は休みじゃあないけど・・・

ちょうど玄関先でアゴヒゲ男と口ヒゲ男が俺を見ていた。職員の方だろうか。思い切ってアゴヒゲ男に言ってみた。自分を指差し「ヤパンツーリスト」「トゥナイト」そして両手を合わせ枕にして顔を横にするポーズ。「泊まれない?」と尋ねたつもりだ。彼は一度引っ込み、そしてすぐ戻ってきて「OK」と言ってくれた。

やった! ありがとう!

それがティボーさんとの出会いだった。

 

彼は英語を話せた。といってもスキルは俺と同程度だ。ブダペストで買った辞書が2人の間を何回も往復した。時に俺は英和辞書も見つつの会話。わかったことは、彼は高校の国語教師で、寮の舎監を夫婦でやっていること、新婚であること。妻も教師であること。そしてハンガリー語でありがとうは「ケッセナム」 とても大事な言葉を教えてもらった。

こちらは食品の技術者で加工油脂メーカーに勤めていることや、ホルトバージに行こうとしていることなどを話した。先程の口ヒゲはなんと学生だった。寮長というのか、学生のリーダーである。高校生のクセに口ヒゲなんか生やすなやあっ! と一言ツッコミを入れたいのだが、これから戴く一宿の恩義を考えやめておいた。

それからは忙しかった。授業を終えた先生たちが次々にやってくる。数学、理科、音楽・・・

皆、突然現れた日本人が珍しくてしょうがないんだ。

つまり、俺は観光旅行に来たのだが、今は完全に観光サレテイル状態なんである。初めて会う日本人が俺。彼らにとって今後は、日本人≒俺のイメージ。責任重大かもしれぬ。

学生達も同様だ。次々といろんな質問がくる。日本に対して悪印象を持っている人はいないようだ。これは日本の諸先輩方のおかげなのだ。感謝すべきことだ。

校長先生にはちょっと緊張した。言葉は分からないが、ティボーさんが事情を説明し交渉してくれているのは分かる。了承された。校長先生と握手をする。そして、また質問・・・

 

その後、ティボーさんは俺を連れて役場に行き、外国人が泊まることを届けた。

社会主義国なのだった。俺は彼の個人的な客という扱いになったという。

自分だったら、見ず知らずの外国人から泊めてくれと言われて、すぐOKするだろうか? 相当警戒する筈だ。自転車旅行だから良かった? いやいやこの人、相当人間がデカイよ。

 

そして彼の妻エリザベートに会い、レストランで夕食をごちそうになった。食事に来ている人々からも大注目を浴びる。もう状況に慣れたので「どうぞ見てください、私がウワサの日本人です。」という気持ちだ。ティボーさんから提案があった。夜中にメーデーツリーを学生達と取りに行く、シークレットだけど一緒に行くか? もちろん行きますとも! 

メーデーに、クリスマスのようにツリーを立てて祝うなんて経験は日本じゃできない。

寮に帰り、「その時刻」まで学生も交えいろんな話をした。ホルトバージまでの180キロ、自転車で行くのにふさわしいルートを話し合って教えてくれた。またお互いの国の歴史や文化など・・・彼らは色々問題もあるけれどといいつつ、自分の国に誇りを持っている。素直にかっこいいと思えた。ティボーとエリザベートはブダペストに行ったら泊まれるようにと、友人の住所を教えてくれ、紹介状を書いてくれた。

 

夜10時。いよいよツリーを取りに出発だ。総勢約10名。ワイワイと騒々しく完全にピクニック状態である。どこが「シークレット」やねん! 突っ込みは忘れずに心の中でいれていた。街はずれの森に到着すると、急に静かに!という指示が出て、皆が神妙な顔つきになった。今さら遅いっちゅーの。そうっと木を見定めてゆく。ティボーさんがこれにしようと決めた木は、4メートル以上ある“大木”だった。

びっくりした。そんなデカイものを考えていなかったし、勝手に樅の木のような形を想像していたから。こんなの勝手に取ってきて「シークレット」じゃすまないだろう。大体、天井につかえて部屋に入らないぞ。

頭の中はギモンだらけだが、ヨソモノは黙って作業した。まあ、そのうち分かるやろ。

2人挽きノコギリで切って倒し、皆で担いで寮に帰る。10人で担いでも重い。そら人数必要だわ。帰ってきてもうひとつ納得がいった。部屋の中ではなかった、吹抜けになっている階段に立てたのだ。色とりどりの紙テープで飾りつけ「ビューティフル」とか、皆、ご満悦で言っている。俺にはそんなにきれいに見えないけどー。とても楽しかったので。

「ベリーグッド!」

 真夜中に就寝。長かった一日目を振り返った。上がったり下がったり・・本当に忙しかった。だが素晴らしい経験ができた。列車のオジサンにも感謝せねばなるまい。彼がいなければこの街に来る事はなく、この出会いはなかった。かなり興奮しているので寝付けないかと思っていたが、身体は正直で、あっという間に熟睡していた。

 

翌朝、出発の時。

学生達も見送ってくれた。「ケッセナム!」 感謝の気持ちで一杯だ。

エリザベートは弁当を渡してくれた。手を振って自転車で走り出す。対向車がきて、自分が道の左側を走っていることに気づく。危ないあぶない。この国は右側通行だ。

街を出てしばらく走ると、地平線まで見渡せる風景が広がった。

今日も快晴。気分がいい。皆が昨晩考えてくれたルートは分かりやすく、交通量が少なく、美しい風景の道。アップダウンはない。これなら180キロも楽勝かな。

「犬も歩けば棒にあたる」「渡る世間に鬼はなし」そんな言葉が頭に浮かぶ。自分から飛び込んだからこそ、幸運が開けたのだ−当時はそう考えていた。

今思えば、大バカ勘違い野郎である。

誤算はあった。風だ。一所懸命漕いでもスピードは25キロどまり。

実際、防風林や小さな村に入ると、とたんに30キロ以上をメーターが表示する。

しかしそれはあっという間に終わり、また、さえぎるもののない大平原が続く。

そして乾燥した気候。すぐに喉が渇く。まあ、日が落ちるまでに着けばよいのだ。

途中の村のバーや井戸で水を補給しつつ、戴いた弁当を食べながらマイペースで進んだ。

一人なんだけど、泊めてくれた寮の皆と走ってるような。とても充実感のあるサイクリングだった。

ホルトバージに近づくと風景はますます田舎になった。小川一面に白い鳥が溢れているのを発見。凄い数のガチョウの群れだった。フォアグラはハンガリー名産のひとつである。

写真に撮ってあるけど、解説しないと絶対分かってもらえない風景だ。そして馬の放牧。

5時前にはホルトバージに着いた。本当に田舎だが観光地らしく土産物屋もある。宿をとり、近くのレストランでゆっくり食事。帰りの夜道。大きな豚が一人で散歩していた。

 

翌日、自転車で周囲をポタリングして大平原をもう一度楽しんでから列車でブダペストに戻った。ティボーさんの友人は、突然来訪した日本人に戸惑いながらも、一晩快く泊めてくれた。その友人の家を探している途中、元気な高校生ジョルト君に出会い、意気投合して住所を交換した。

その後は安ホテルに滞在しゲレルトの丘や漁夫の砦、セイチェーニ公園の温泉など、ブタペストの定番観光をした。もちろん名物料理グヤーシュ(パプリカのスープ)やフォアグラを食べることも忘れなかった。

感謝と充実した気持ちで帰途の飛行機に乗った時、もうひとつの出会いが待っていた。

 

乗客の中に、東南アジア系の女の子が2人いたのだ。

並んだ順番も近かったが、俺はわざと彼女たちの隣に座った。顔立ちからするとフィリピンかインドネシア人でないかと推測していた。

なんで? ハンガリーにいるんだろう。訳を知りたかった。不躾だが、早速質問した。

「どこから来たの?」

「カンプチア」

一瞬分からなかった。が次の瞬間。理解した。カンボジアの人だ!

頭の中でジョンレノンのイマジンが流れ始めた。

俺はその頃インドシナに興味があって、一ノ瀬泰造の「地雷を踏んだらサヨウナラ」や近藤鉱一の著作などを随分読んでいた。映画「キリングフィールド」も見ていた。クメールルージュによる大虐殺で100万人以上の人々が、同じ国の人間に殺されてしまった国。

当時はクメールルージュを倒した社会主義政権の時代。まだ内戦は一部で続いていた。

彼女たちは姉妹でモスクワの医学生だった。ブダペストには知人を訪ねていたという。

姉のレイビイが英語、妹のレビンがフランス語担当。俺はもっぱらレイビイと話した。

「医者になるの。私の国のためよ。」

そう言った彼女の眼を、36年経った今でも。俺ははっきりと憶えている。

きっとこれからも忘れることはないと思う。

日本でも、かつて維新や戦争に向かった若者はこんな眼をしていたのだろうか。

当時、俺は24歳。レイビイは20歳。20歳にして自分の国の人達の為に役立とうと決意し、努力している人。と、自分との差。旅の終わりに、強烈なストレートパンチをもらった。

 

この旅には、結構、後日談がある。

ひとつは、チェルノブイリ原発の爆発だ。モスクワからの乗客は成田でガイガーカウンターを当てられていた。翌年胃がんになった時、その放射能を浴びたせいかもと、考えたりした。

カンボジアのレイビイとはその後5年程文通していたが、住所が変わったのか、音信不通になってしまった。祖国で今も医者を続けていると勝手に考えている。

文通している頃に送ってくれた写真。右がレイビイ。左が妹のレイビン

ティボーさん家族との付き合いは続いている。1991年には新婚旅行でチエミと2人で再訪した。さすがにレンタカーの旅にしたが。彼ら家族には、3歳の娘エシュタと1歳の息子バルナバシュが加わっていた。

2007年、エシュタはブダペストの大学生となって、日本語と日本文化を学び始めた。それを聞いた時は嬉しかった。彼女が日本に興味を持ったのは、まさに俺たち夫婦の訪問が理由だろうから。

最初はクリスマスカードやエアメールの文通だったが、今はSNSで繋がっている。

彼女がコンゴの小学校で仲間達と活動するユーチューブを見た時には感動した。

右の眼鏡をかけている女性がエシュタだ。

www.youtube.com

バルナバシュも子供へのボランティアを良くやっている。外国を一人旅して、頼もしい青年に成長した。なんというか、親戚の叔父さん的気持ちになっている。

ティボーさん自身は高校教師から大学講師へ、前衛劇団の監督へとなっていった。

 

ブダペストの街で出会ったジョルト君。新婚旅行の時は再会できたが、その後彼も音信不通になっていた。

2020年にフェイスブックで久しぶりに検索したら、懐かしい面影あるオジサンが・・・メッセージを送ったらすぐ返信が返って来た! 25年振り位? その日はお互いの近況や家族の事などなど随分長い時間チャットしていた。昔から日本贔屓の彼の家には日本メーカーの家電がいっぱいあり、DENONのレコードプレーヤーまで持っているそうだ。

彼らとまた会う機会は、必ず来るに違いない。今度は日本で会えれば嬉しいが、自分があの美しい国を再訪する方が先かもしれない。

 

2.アルプデュエズ、2000

l’Alpe d’Huez

ラルプデュエズと書く方が、一般的だ。そのカタカナ表記はサイクルスポーツ誌の編集者だった、フランス語堪能な山口さんが広めたそうだ。じゃ、なんでこう書くかと言えば、現地の人の発音がラルプよりアルプに近いと感じたから。 生意気でしょ?

 

俺にとってアルプデュエズと言えば、1986年のツールドフランス。 ベルナール・イノーとグレッグ・レモンが並んでゴールした、あの山。

2023年の今年でも、登坂のコースレコードをマルコ・パンターニが持っている山。1997年に記録した37分35秒だ。

 

96年にチタンで作られたスギノのロードバイクを、スポルトピーノで買ってから4年。貯金がたまったので、行くことにした。チエミを誘ったが、俺が自転車で山を登っている間待っているのがイヤだとあっさり断られ、1人で行くことになった。

 

キャリアはアリタリア航空。せっかくなのでミラノの老舗レストランでカツレツを食い、トリノのバーでピエモンテ州のワインを楽しんでから、朝一のバスでフレンチアルプスへ向かった。以前はかなり下調べをしたが、仕事の多忙を理由にサボっていた。しかし辺境に行くわけじゃなし、なんとかなるもので、確実に目的地に近づいていく。バスはキャプーチが92年のツールで大勝利したセストリエールを通った。レースでよく使うのだろう、道路には選手への応援のペイントが残っていた。眠そうな乗客ばかりの中、一人で興奮している自分が滑稽だった。

よく晴れた日で山々が輝いて見えた。

 

バスは国境を越えフランスに入り、終点のブリアンソンに着いた。イタリアではここまでの行き方しか分からなかった。インフォメーションで聞くと、アルプデュエズの麓の街、ブールドワザンまで行くバスが2時間半後に出る。(注:フランス語を喋れると誤解しないでネ。ボンジュール、の後は関西弁なまりの英語と日本語と身振り手振りによるコミュニケーションです。感謝のメルシーだけは忘れずに。)

ラッキー。ちょうど昼時だし街でメシが食える。何よりすごくきれいな街で覗いてみたかった。精一杯の速攻で自転車を組み立て、コインロッカーに荷物を突っ込み街へ向かった。バス停には今年はジロ、ドーフィネ、ツールがこの街に来る!というポスターが貼ってあった。とても羨ましい。

旧市街にピッツァとパスタとクレープという、粉モンばかり売っている小奇麗な店を見つけた。そういやイタリアでピッツァを食べてなかったし、と決める。若い夫婦が切り盛りしていた。突然東洋人が現れたせいか、面食らった顔をされたが、日本からサイクリングに来たと自己紹介すると急に表情が柔らかくなり、常連客の爺様も巻き込み、いい感じに盛り上がってしまった。

ピッツァが来た。一口食べる・・・ 大ハズレ。 あっちゃー。 爺様が旨いか?と聞いて来る。親指を立てて微笑みながら、心の中ではせっかくアルプスに来たのだから、やっぱその土地のものを食べなきゃなあと反省していた。

 

さて、再びバスに乗って目的地に向かう。途中右に曲がればガリビエ峠、という所があったが、雪でまだ閉鎖されていた。アルプデュエズも閉鎖されていたら困るな。まあ、行けるとこまで行くだけだ、いつもと一緒、と思い直した。そしてバスはブールドワザンの街を通り過ぎたところにあるバスターミナルに止まった。

 

まずグルノーブルへ行くバスの時間を調べた。思ったより頻繁に出ていた。所用時間は40分程だ。これなら気楽に滞在を楽しめる。

次は宿だ。街中まで自転車で戻ろうと考えていたが、ターミナル前の小さなホテルに目が行った。テラスには自転車選手をかたどった飾り付けがされていた。吸い込まれるように道を渡る。40代後半と思われるオーナー。英語はバッチリだ。バス、トイレ付き一泊5千円位、欧州の小さな民宿的ホテルによくあるように、部屋は古いが清潔だ。お湯もきちんと出る。自転車を置くガレージもあった。冬にはスキー類を置くそうだ。

即決した。荷造りしてからの移動が楽だ。フロントで宿帳に名前を書く。この日は俺ともう一組しか客はいなかったが、欧州はもとより南アフリカやイギリスなど様々な国の自転車バカが来て泊まっていた。ツールの時にはプロチームも泊まるそうで、USポスタルやフェスティナの写真が貼ってあった。ビランクの写真もあった。俺の部屋は誰が泊まったのか教えてもらったが、知っている選手じゃなかったのですぐ忘れてしまった。

宿のオーナーの名はボクーさん。アルプデュエズは封鎖されていないという。よかった! 行き方や付近のコースを教えてもらった。この時初めて、ラ・マーモットLa Marmotteを知った。ブールドワザンをスタートし、グランドン峠、テレグラフ峠、ガリビエ峠を経てラルプデュエズにゴールする、174kmの長距離市民レース(シクロスポルティフ)だ。獲得標高5,000mの山岳コースなのでグランフォンドともいうらしい。毎年7月第1週に開催されている。そんなハードなん、俺には無理だ。でも。いつかまた夏に来てそのコースを走ってみたいな。

 

部屋の窓からはアルプデュエズが見え、いやおうなしに気持ちが高まる。自転車を組み立て下見に出かけた。バスで通ってきた道を戻り、小さな街を抜けてアルプデュエズの登り口までゆく。途中にキャンプ場や民宿、売店付きガソリンスタンド、スーパーのカジノがあった。当時カジノはツール山岳賞のスポンサーだった。

登り初めのキツい坂を少しだけ登った。

その後は街を偵察。パンやオヤツを買ってから、宿に戻った。

夕食は再び自転車に乗り、目をつけていた、川のほとりにある雰囲気のいいレストランに行った。 サービスのお兄ちゃんがフレンドリーで、気軽に相談しながら地元料理に決める。フランス語のメニュー、料理は分からないものが多いが、仕事柄デザートの頁だけはよく分かる自分に気づき、苦笑いした。

料理は昼の落胆を吹き飛ばすほど旨かった。今回の旅では一番の当たり。デザートを食べる頃、隣の品の良いご夫婦が英語で話しかけてきた。ロードバイクに乗ってきた東洋人が、やっぱり気になるのだ。彼らはリヨンから春スキーをしに来た。運送会社の社長さんだと言うのでそりゃスゴイッと言ったら、いや小さな会社だよと謙遜していた。フランスでも日本みたいに「謙遜する」のが美徳なのか、この方の性格か。これがUSAなら俺の会社はリヨンじゃ有名で、トラックを何台所有していて〜と、実際はたいしたことなくても自慢するはずだ。(後で送られてきた手紙には、かなり大きな敷地にある会社の写真が入っていた。)息子さんが香港を拠点にアジアで働いているそうで、それも俺に興味を抱いた理由のようだった。

 

翌朝、準備を整えて憧れの山に登った。

快晴。そして美しい景色。ペダルを回すだけで歓声が出る。

登りはじめがかなり急なのだが、やがて斜度は一時緩やかになる。21のカーブには歴代優勝者の名が標識になって掲げられている。

キツい。もっと走りこんでから来るべきだったな、と今さら遅い後悔をした。が、すぐに忘れた。念願の場所を今、走っている!

4、5人のサイクリストに追い越された後、1人の中年サイクリストがやってきた。若干俺より速いがこの人になら付いて行けそうだ。挨拶し、ペースを合わせて登る。

無言だが自転車乗り同士の連帯感があった。

中腹の集落で知り合いから声がかかり、彼は止まった。こちらは動き続ける。いい感じで連れができたのに残念だ。

視界が開いた場所にでて、ますます気分が高揚する。スキー場にはかなり雪が残っていた。ここは「晴れの日がとても多い場所」。なるほど、春スキーには最高だ。やがてテレビで見慣れたカーブが現れた。前方にはホテルが沢山並んでいる。

もうすぐゴールだ!

すでに2時間近くが経過していた・・・・ここを37分で登ったパンターニって!

と、さっき止まったはずの彼が再び追い付いて来た。そこでようやく、彼が俺のペースに合わせてくれていた、ということを理解した。ゴールは彼が先着。そのまま先に進んでいきながら、こっちに来いと腕を振っている。付いて行く。その先に広場があった。

いい景色だ。

自転車をベンチに立て掛け、お互い自己紹介をする。と、彼はジャージを脱ぎはじめ上半身裸になった。鍛えとんなあ、腹筋割れてるし。

俺もジャージを脱いだ。彼にならって汗だらけの体を拭き(自分でね!)、下りに備えてアームウオーマーやウインドブレーカーを素早く着込んだ。

 

家が近くだから寄っていきなよというお誘いを受けて、下り始める。途中1軒友人のところに寄るという。きっと先刻止まった家だな。

彼、クロードさんの下りは、カッ飛んでいた!慣れているにしても凄い。こちらはタダでさえ遅いのに、ガードレールがない場所もあって、崖に落ちそうでムッチャ怖い。それでも見失ったら困るので、ビビりながら気持ちだけは最速で下った。思った通り中腹の家の前で彼は待っていた。

 

友人はメッカさんという老夫婦だった。がっちり力強い握手をして歓迎してくれた。白ワインにカシスかフランボワの甘いソース(リキュール?)を入れたものを戴いた。旨いが酔っ払いそうだ。2人の会話にオスローとかコペンハーゲンとかの地名が出てきていた。旅行の話かな、と思っているとクロードさんが英語で説明してくれた。

メッカ夫婦は夏の間他人のバカンス用に自宅を貸して、そのお金で自分達は外国旅行に出かけるのだそうだ。今年の目的地は北欧にしたいがどの国にするか迷っているのとのこと。たしかゴルフのマスターズでも同様な話を聞いた事がある。そりゃ、もしツールドフランスの時にこの家を基地にできたら、最高だ。 

「日本においでよ! 俺、案内するし(うわあ、下心ミエミエだあ)」と言ったが、朗らかな笑い声が一度上がっただけで、全く選択肢には入らないようだった。

しばらく談笑してから(俺はワイン飲んで微笑んでいただけ)また山を下ってクロードさんの家に向かう。ブールドワザンの街中で俺はポンプを落として、彼を見失ってしまった。しょうがなく真っ直ぐ進んでいたら、気がついたのか迎えに来てくれた。

彼の家はバスターミナルを越えてしばらく行った住宅地にあった。大きくはないが庭にはプールまである。奥様が驚いた顔をしながら迎えてくれる。家の中はモダンな家具が揃い、山小屋風のメッカさん宅とは正反対だ。クロードさんも旅行好きのようで、リオのカーニバルに行った時の写真が飾ってあった。ここでも白ワインに例の赤いソース入りを出してくれた。きっとこの地方の「お茶」なんだ。ソースが何からできてるか、聞いとけばよかった。

 

クロードさんが俺達の出会いや俺が泊まっているホテルの話をして説明する。彼女ニコニコ聞いてるけど、大丈夫かなあ。彼がサイクリストを突然連れてくるのは初めてではなさそうだったが、余り話に加わらないとこを見ると実はムッチャ怒ってるのかも。ウチだったら、ケータイで連絡しておけば大丈夫だけど。彼が電話しているところは見なかった。旅行の話や自分の仕事、ブールドワザン周辺の自転車コースの話をしている内に、お腹が減ってきた。

12時近い。知らない振りして居座っていれば、ご飯を出してくれそうな気もしたが、平和のために遠慮する事にした。

お礼を言って立ち上がった・・・・引き止められなかった。

 

ホテルに戻って買ってあったデニッシュの類を食べたら、午後も山に登る気力が抜けてしまった。そこで午後はブールドワザン周辺をのんびりポタリングした。それは正解で、何回もしつこいが本当に美しいアルプスの小さな街や景色を楽しむことができた。

いつか家族を連れて来たいものだ。

次の日の午前、もう一度アルプデュエズに登った。今度は写真を撮りながらゆっくり登ったが、途中で両足がツって、道の端でしばらく唸っていた。場所がフランスでも、やってることは日本と変わらない。この日出会ったサイクリストはわずか1名。上下サエコのジャージですごいスピードで抜いて行った。こちらは何とかやっとゴールして、カフェで休憩してから下った。

 

それから荷造りしてバスに乗ってグルノーブルに行き、TGVでパリへ。着いたら19時過ぎだった。駅の案内所の人が当方の希望格安価格に加え、自転車を置ける場所まであるホテルを探してくれた。地下鉄に乗って向かう。パリの地下鉄は改札口が狭くて輪行に全く向かない。ホテルは北駅の近くにあった。あまりガラがよくない場所なのは駅を出てすぐ分かった。が、フロントの人は親切で、宿泊客も普通の人だった。自転車を置く場所を教えてもらったが、鍵をかけても不安があったので、部屋に持ち込ませてもらうことにした。

 

パリでの目的は2つ。シャンゼリゼを走る事と、パンと菓子の有名店巡りをする事だ。翌日から2日間、ペダルをビンディングからストラップ式に変えて街中をサイクリングした。

最初に行ったのは、もちろんシャンゼリゼ。テレビで見て思っていたよりずっと凸凹の石畳に驚いた。そして凱旋門に向かって緩い上りになっている事にも。以前(1984年だから16年前)来た時は歩きだったせいか、全く記憶になかった。自転車はいやでも傾斜が鮮明になる。・・・結構シンドイ。こんなトコをあんなスピードで何周も走ってるのか!プロ選手の凄さを実感できた気になって笑いながら走っていた。周りの人はドン引きだったろうなあ。

はじめは石畳、イシダタミと走っていたが、ガタガタと辛いので、凱旋門近くに来る頃には道の端の滑らかな部分を走っていた。

2009年のツールで、別府史之選手はこの滑らかな所を利用して逃げを決めた。1人テレビの前で歓声をあげながら、もう薄れてしまった走行感をたぐり寄せていた。チエミが起きていたら俺はきっと「ココ走ったんだ」と自慢して、またあきれられていたと思う。

 

自転車での有名店巡りも楽しかった。どの店も味、店作りにそれぞれ特長があり、接客がしっかりしていた。日本の観光客だと言うと、殆んどの店が写真撮影を許可してくれた。ただロータリーで抜ける道を間違え、しょっちゅう迷子になってしまうのには閉口した。

ある交差点で「いい自転車だな」と声をかけられた。見た所ごく普通のオジサンである。アルプデュエズを登って来たと言ったら、「42? 39?」と質問された。 ! 思わず姿勢を正して「39です」と答える。オジサンはやっぱりそうだろうと頷き、道を渡っていった。しばらく後ろ姿を見送ってしまった。インナーギヤの歯数を聞かれるなんて! 

本場フランスの自転車文化は、やっぱり深いなあ。 と、いいように解釈した。

翌日は別のオジサンから、ロードバイクなんだからビンディングペダル使えよ、と突っ込まれた。

パリの紳士って。 

実は、東京下町のオバチャンに似ているかもしれん。

 

最後の晩。夕食をとった後、酔い覚ましに散歩していると公園で前衛芸術のような劇をやっているのに出くわした。見物客もたくさんいた。よく分からないのだが引き付けられ、結局最後まで見てしまった。22時を過ぎていた。

あんなの公園でやるなんてさすが芸術の都だ、今回の旅行もいろいろ面白かった。いい気分で帰る途中、野暮ったいノロマそうな兄ちゃんに声をかけられた。

自分はイタリア人観光客で明日モンマルトルの丘に行くのだが道を教えてほしい、と。

俺も観光客だから分からないと去ろうとしたが、地図だけでも見てくれない?と頼まれた。しょうがないなあ。地図を覗き込む。そこに2人の男が駆け寄ってきた。黒い何かを素早く見せ「警察だ!」

1人がイタリア人の腕をつかみ、押さえる。

しまった!     こいつら、 3人組だ!

しかしすでに歩道の奥で囲まれた形になっていた。

ノロマなのはお前だ、  この大馬鹿者! 

刑事の1人がまくしたてる。「コイツはクスリの売人で見張っていたのだ、 お前も買ったのか? クスリを出せ、日本人? だったらパスポートを見せろ、日本円を持っているはずだ、日本円をみせろ・・・」

 地球の歩き方に書いてあった詐欺話そのままやんか・・フランス語で「助けて」ってなんていうんだ?

ワタシ、エイゴ、ヨクワカラナイとごまかしながら、頭をフル回転してどうするか考えた。向こうは気付かれていないと思って芝居を続けている。刑事役がちょっと視線を外した。 体が、右にダッシュした。ダッシュした自分に驚く。

「ヘルプ! ヘルプ!」大声で叫びながら、全力疾走する。救援者は現れない。

追いつかれたらおしまいだ、早く人のいる場所へ逃げろ!・・・怖くて後ろを見ることができない。 少し明るい通りに出て、やっと振り返った。

 

いない。    助かった !

 

まだ用心しつつ、宿へ向かった。

体は無事だし、何も盗られずにすんで良かったと思う気持ちもあったが、自分のマヌケさに物凄く腹が立っていた。 カフェで気持ちを落ち着けようとしたがダメで。 酒屋でビールを買って帰り一気に飲んで、 寝た。

 

空港に向かうバスに輪行袋を預けると、係のオジサンが「サイクリングか?」と話しかけてきた。 日本人がレースの事や、ビランクのドーピング事件まで知っているのが面白かったようで、わざわざ同僚を呼んで俺の事を説明し、2人で喜んでいた。

 

みんな、自転車レースが好きなんだ。

 

もうひとつオマケがあった。関空で自転車は出て来たものの、リュックが出て来なかったのだ。ミラノで乗り換えた時、別便に乗せちゃったそうだ。人生初のロストバゲージ。数日後ウチに届いたが、お土産に買った名店のお菓子達は粉々になっていた。

 

3.ラ・ベルナール・イノー、2006

ブルターニュの穴熊、ベルナール・イノー。自転車を始めた頃にNHKの番組を見て、多大な影響を受けた自分にとっては最大のヒーローだ。1987年だったか来日された時のシマノグリーンピアロードレースの抽選で当たったサイン色紙を、額に入れて部屋に飾っていた。初めてサインを見た時は、HBって書かれただけのシンプルさに、鉛筆かよ?と驚いたけどね。

 

彼は本物のプロフェッショナルだ、と思う。その時々の自分の為すべきことを的確に把握し、それを完遂する。「プロとして金取ってるのに中身は素人」が自分の周りに増えてきたので、よけいに憧れる。ツールドフランス5勝以外に様々なエピソードがある。大寒波のリエージュ・バストーニュ・リエージュを凍傷になりつつ独走優勝したり、大嫌いと公言するパリルーベでベロドームに入ってから風を利用したスプリントで勝ったり。一方、世界戦直前バスの中で作戦会議と称してブルーフィルム(懐かしい言葉だ)を見ていたとか、家に自殺志願者が突然やってきたが奥さんの機転で事なきを得たとか。パリ〜ニースでデモ隊と殴る蹴るのケンカをしたのはキャリア晩年の大ベテランになってからだ・・・2008年のツール第3ステージ表彰式では昔取った杵柄? 闖入者を見事に強制排除した。

 

2006年。イノーさんの名を冠したシクロスポルティフに参加した。シクロスポルティフはフランスで行われている長距離市民ロードレースだ。基本的にマラソンのようにオープン参加型一斉スタートで、カテゴリーが分かれているわけではない。プロからカメまで、それぞれ自分のペースで、自己責任で走りなさいという、いかにもフランス的な競技大会である。

ラ・ベルナール・イノー(La Bernard Hinault ) は、彼の故郷であるフランス北西部のブルターニュ地方イフィニアックの近郊の大きな街、サンブリュー市を起点に、イフィニアックから海岸に出て美しい岬を通った後、内陸を回り、再びイフィニアックを通ってサンブリューにゴールする。丘陵地帯の230kmのコース設定だ。2003年のツールドフランスで使われた道もコースに組み込まれている。別に、ショートカットする110kmのコースも設定され、こちらには奥さんの「マルティン・イノー」の名前がついていた。2007年からは更にコースが増えて、より参加しやすいように変更され、8月から6月に開催時期が移行している。

sportsnconnect.lequipe.fr

https://sportsnconnect.lequipe.fr/calendrier-evenements/view/113/la-bernard-hinault

自分はフランス語ができないし、フランス語で書かれた健康診断書が必要だったり、手続きがそれなりにあるので、旅のコーディネイトを(株)ルーセントアスリートワークスの久保信人さんにお願いした。イノーさんに会えるよう、段取りをつけてくれると心強い言葉が嬉しかった。

 

パリに着いてから、久保さんの拠点があるノルマンディーのエルブッフへ。健康診断を受けに医師に連れて行ってもらったら、美人さんだった! 笑顔がとても可愛らしい人。

会場のサンブリューに向かう道中は、練習したり、ずっと行きたかったモン・サン・ミッシェルを訪れてオムレツ食べたり、ブルターニュ名物の「フリュイ・ラ・メール 海の果実」を食べたり。

でも一番は、車の中で久保さんの日本の若い自転車選手を本場で育成するエスペランス・スタージュの活動や彼自身の経験を聞いたり、自分の胃がん治療を語ったり、いろいろ話せたのが良かった。久保さんの行動力と信念を尊敬している。

 

レース前日。まずイフィニアックに向った。美しい小さな町というか村、だ。パン屋さんにイノーさんの家を聞き、その後も何人かに聞いてようやく探し当てた家は、敷地は大きいが想像よりも質素だった。イザとなって尻込みする俺に、せっかく来たんだからと、どんどん突撃する久保さん。

ピンポーン! 出てきた方は、お父さん。20年前の番組で見たベルナール・イノーの父、まさにその人だった。突然来訪した日本人2人組に驚いただろうが、親切に応対してくれた。ベルナール本人は、今は別の村に住んで農場を営んでいるそうだ。俺は心の中でイノー父が20年前の風貌とまったく変わらないことに驚いていた。(妖怪ナントチャウカ・・?)

そしてサンブリューに入り、受付。漢字でサインしたら大受けだった。ゼッケンは7番。初の日本人参加者に特別待遇だ。それは86年ツールのレモンと同じ番号なんやけど・・

募集要項には3,000人と書いてあったが、06年は暫くぶりの開催のせいか、参加者は500人程だった。これはちょっと焦った。3,000人も走るなら自分の実力にあった集団に乗れるだろうと踏んでいたが、この人数では単独で走る可能性が高い。久保さんも急遽一緒に走ってくれることになった。(事前練習を見て、俺の実力ではヤバイと思ったんだろうなあ) その後、車でコースの約半分を下見した。

戻ってくると・・・イノーさん御本人と会うことができた。

もう、アキマセンワ・・・

思うように言葉が出てこない。自分の年齢を考えると恥ずかしいが大感激! サインをもらい、日本から持ってきたお土産を渡す。奥さんのマルティンさんも息子のミカエルさんも一緒。一家みんなに会えてしまった!(息子さんはもう一人、アレックスさんがいます)

自分の所属するチーム、オッティモのジャージにもサインもらっていたら、マルティンさんが「強いパワーが出るから、完走間違いないわよ」(通訳:久保さん)と保証してくれた。

興奮冷めやらぬ中、宿でパスタ食べて、翌日に備えるのであった。あ、このパスタは残念だった。ソースも具材もとても美味しいのに、パスタだけグダグダに茹ですぎなのだ。隣の国なのにフランス人にはアルデンテの経験はないのか、好みじゃないのか・・・これがうどんなら俺は讃岐うどんも、やわらかい伊勢うどんも別モノとして美味しく頂くのだけどね・・・例えが成立していないかも・・・

 

レース当日。朝から気温は低めながら、晴れ。フランス入りして一番いい天気。だが油断してはいけない。ここはブルターニュなのだから。隣のノルマンディーの天気予報は毎日「晴れ後曇り後雨」と久保さんが言っていたがブルターニュもそんな感じなのだ。日が照ると暑くなり、雨が降ると寒い。それが「普通」なんだそうだ。

 

 朝7時半にスタート。昨晩の作戦会議では、自分の頑張れるペースより少し楽な集団を見つけて一緒に行くということになっていた。ロングライドの基本である。

 

 スタートして7km、イフィニアックを通過。イノー父も沿道で応援してくれていた。この頃には似たようなペースの選手が集まって小集団ができてくる。これはいい感じやん!と思っていたが、上位集団から降って来る人が増え大きな集団になると、かなりスピードがあがってきた。平均心拍160はイッテル(最大心拍数の90%付近)が、なんとかついている状態だ。「イフィニアックの丘があったから自転車選手になれた」とイノーさんが言った、その丘陵地帯は、急斜面や長いアップダウンが続く。集団メンバーの主な年齢は50代から60代。

「ボンジュール!」とアイサツすれば、皆、声かけてくれて、かまってくれるのが嬉しい。(といっても俺はフランス語ができないのだが。)気分は相当ハイになっている。心の中では「ハシャギすぎや!ペース落とさないと持たんぞ。作戦と全然違うことやってるやん!」と思いつつも、集団から切れるのも怖いし「このままこの集団で行きたい! いや練習の効果がでて、かなりイケルんちゃうか?」とまで思っていた。海岸線にでて60km地点にある美しい岬を越えても、しばらくは二重丸のデキで走れた。

しかし内陸に入ると、自分の実力が隠せなくなってきた・・・登りの度に集団最後尾まで遅れる。さすがにつらくなってきた。みんなはしっかり登っていく。力の差は歴然としている。そして強い横風。テレビで見るように集団が道幅いっぱいに斜めになって進む。力のない俺はローテに入れず後ろにつくのが精一杯で、これがまたキツイ。(けどこれがフランスなんだと思って、嬉しい・・)

 約100km、とうとう久保さんからこれ以上追い込むとマズイと撤退指示がでた。

ペースを落とし後ろの集団を待ちながら進むが、太腿が軽く攣った。来た!毎度おなじみのパターンだ。水の飲み方が足りないと指導を受ける。暑い時には30kmに一本位のペースで飲まないといけないそうだ。しかしクランプストップで復活し約4時間で120km地点のエイドに到着。予定していたよりもずいぶん速い。オーバーペースでもここまで来た事は自信にもなったが、登りの力不足も改めて浮き彫りになった。

 エイドでびっくりしたのは。マルティンさんが皆にサービスしていたこと。水、りんご、バターケーキなどが並ぶ。そして、そば粉のクレープ+ソーセージ、旨かった!

しばらく休んだ後、さあ、あと半分!と再び走り始めるが、前半無理したツケは大きかった。登りで足が完璧に攣り、とうとう自転車を降りてしまう。こうなるとクランプストップもアスリートソルトも効かない。シップを貼って負担をかけないように軽いギアでゆっくり進むことしかできない。5回は止まって筋を伸ばしたろうか?

「ロードレースに奇跡は起きない」漫画シャカリキの由多監督の言葉が、頭の中でリフレインしていた。本当、次の190kmのエイドまでは長かったなあ。 普段のサイクリングでは淡々と距離を刻む時間帯も大好きなのだが、この時はさすがに身体がまいっていた。ただ気持ちだけは「絶対、走りきる」

 もう周りには誰もいない。完全に久保さんとの二人旅だ。かなり予定の時刻をオーバーしているのではないか。それでも、曲がり角やロータリーにはボランティアの人が立ってルートを示し、応援してくれる。いくら田舎道とはいえ公道だから、日本じゃ考えられない。自転車レースのために何時間も何も無い交差点に立ってるなんて。「文化の差」・・・言葉では簡単だが。

2回目のエイド後はかなり復活し、足も攣らなくなったが、今度は前方に大きな雨雲が現れた。逃げるわけにはいかずコース通りに突入する。スゲー大雨! たまらず木陰で雨宿り。少し小降りになったので走り出すが、凍えるくらい寒い。(サンブリューではヒョウが降ったそうだ)

その次にはパシューン!っていい音が! 後輪がパンクした。震えながら修理して慎重に走りだす。やがて雨が上がると、とたんに気温も上がった。ブルターニュの天気を満喫し、なんとかようやくイフィニアックまで帰って下りを飛ばすと、最後の最後で激坂の登りが現れた!

我々は下見していたので良かった。同宿の人はこの坂を知らず、下りからアウターで入って立ちゴケしたそうだ。知ってはいても、俺はまっすぐ登れませーん!

でも、まあ。とにかく。

完走! 記録10時間11分56秒 360位だった。

嫁さんにも胸張って報告できる。実はこの翌日はセンタの1歳の誕生日だったのだ。夫を理解してくれる(あきらめている?)チエミ、ありがとう。バカンスシーズンとはいえ、平日なのにゴールには沢山の人たちが見に来ていた。  

日本から来たということで、終了後のパーティーにまで招いていただいた。サンブリュー市長に「よく来てくれた」とお礼を言われ、不思議な気分だった。運営の人たちの人柄や方針もあると思うが、本当にブルターニュの人々のホスピタリティは素晴らしい。ボランティアや、宿の人々も気さくで楽しかった。

食べ物は牡蠣やロブスターをはじめとした海産物をはじめ、肉もパリと違って柔らかくて美味い。バターの美味しさは世界的に有名だ。日本でもクレープ、ガレットブルトン、クイニーアマン、塩キャラメルといったブルターニュ銘菓が流行したので、もっと人気が高まる素地はあると思う。女性に人気のタラソテラピーはツール3勝のルイゾン・ボベが広めたのだと言うし・・・

非常に幸せな230kmだった。フランス自転車文化の奥深さを少し覗けた、とても貴重な経験ができた。個人で2回欧州をサイクリングしたが、それとは違う、別の発見と達成感があった。シクロスポルティフは、欧州では専門雑誌もある。大きな大会の攻略DVDも出ている。アマチュアで強い人にはメーカーがスポンサードしているのだそうだ。プロ使用より販促として効果的だと思う。

フランスではジャラベールやビランクの名前を冠した大会もある。「初めての日本人参加者」になれる大会もまだ多いんじゃないかな。

 

2008年。イノー夫妻が長崎の被爆のマリア像平和祈念活動で来日した時は、千葉県柏市に住んでいたので「もちろん」 家族を連れて神宮外苑クリテリウムに行った。佐多さんに大感謝だ。イノーさんの自転車組み立てを手伝い、オープンライドで少しの間、隣で走らせてもらった。夫妻は俺を覚えていてくれた。相変わらずフランス語は話せないのでロクなコミュニケーションは取れないが。

楽しかったのは「日本人イノーファン」として俺のマニアレベルは相当高いだろうと自惚れていたが、他の方達がサインを求めて差し出す様々なものを見て、その自信がアッという間に崩れ去ったことだ。俺もセンタのKIX(12インチのキックバイク兼用自転車)にサインしてもらったけどさ。こんなにファンは多いんだと嬉しかった。そして自分の息子に「いのー」と名づけた方がいらっしゃるってことも知った! すごいよね。

当時ブリヂストンチームの監督をしていた久保さんとも再会

マルティンさんはその後2008年4月に住んでいる村、カロゲンの村長になった。さもありなん。気さくだけど判断の早い、シッカリした人だから。アノ二人、結構似たもの夫婦なんじゃないかと思っている。つまり、怒ったら・・・(イヤ、コレハ、ナイショニシテオイテクダサイ)

 

2019年にイノーさん夫妻がルコックとルノーの、マイヨジョーヌ誕生100周年キャンペーンで、イラストレーターのグレッグ・ポテヴァンさん家族と来日した時は、単身赴任している鳥取県の境港から東京まで会いに行った。シクロワイアードの綾野編集長とUCI公認ライダーエージェントの山崎さん、MCが小俣さんという、豪華メンバーがプロデュースされていた。グレッグさんに鳥取県から行くよーとメッセージを送っていたが、後で2人が「大切なファンが来るんだ」と俺の事を語っていたと聞いた時は、ものすごく嬉しかった。

2020年。The PEAKS 大山のコース(距離189km、獲得標高4,852m)を練習で走った時、サンマロで自転車屋さんをやっている2番目の息子のアレックスがストラバでコメントをくれた。「Good ride!  I hope to see you in France for a ride together」

おっ、じゃ、城壁都市サンマロに行ったら一緒にサイクリングしてくれるのね! 本当に行くよ、俺。あ、でも、チギられるんだろーなー。モン・バントゥーのグランフォンドを好タイムで走っていたし。行く前は相当練習しとかないと・・・

 

ラ・ベルナール・イノーも、もう一度走りたいけど、彼らが癌治療研究へのチャリティで5月にやっている、ツール・ド・ランス・ビンテージ(Tour de Rance randonee Vintage) に参加したいのだ。これは老若男女問わず走れるサイクリングイベント。皆レトロな自転車や服装で走っていて、とても楽しそうなんだ。ベルギーのレトロ・ロンドを参考に主宰のクリストフ・ルフォーさんやイノーさん長男のミカエル達が2014年に立ち上げた。自転車の楽しみ方って、いろいろいろいろあるもんね。

www.youtube.com

フェイスブックのページはこちら

https://www.facebook.com/TD2RV/

 

4.ラ・マーモット、2015

 毎年7月第一土曜日にフランスのアルプスで開催される長距離市民レース、ラ・マーモット。シクロスポルティフの中でも、グランフォンドと呼ばれる山岳イベントで、18歳以上なら誰でも参加可能。実業団のようなシリアスレーサーから、自分のように完走を目指す者まで、様々な楽しみ方ができる。

marmottegranfondoalpes.com

https://marmottegranfondoalpes.com/en/

例年はラルプデュエズの麓の街、ブールドワザンをスタートし、ツールドフランスで数々の名勝負の舞台となったグランドン峠、テレグラフ峠、ガリビエ峠を経てラルプデュエズにゴールする、走行距離174km、獲得標高5,000mのコースだ。 

だが、2015年はガリビエ〜ラルプデュエズ間のトンネルが崩落により通行不可となり、ブールドワザン〜グランドン峠〜モンヴェルニエのつづら折り〜モラール峠〜クロワドフェール峠〜ラルプデュエズという、走行距離176km、獲得標高5,200mの特別コースとなった。正式決定を知った晩は本当にがっかりして、午前2時位まで欧州のサイクリスト達の様々な反応をインターネットで読みまくった。結果的に、ガリビエ峠はレース2日前にのんびり走って満喫できたし、特別コースは、その年のツールドフランス第18~20ステージを一つに凝縮したようなものだったので、テレビ観戦がとても楽しかった。

誰でも参加できる、と書いたがコースは数字が示す通りタフなもの。2015年は世界中から7,500人がエントリーして、完走者は4,679人。2,800人以上がDNFとなった。そして残念なことに1人の強豪選手が熱中症で亡くなった。だから、しっかりとした準備と練習は必要だ。

 

 俺がこのレースの存在を知ったのは2000年のゴールデンウイーク、1人でラルプデュエズにサイクリングに行った時。宿の主人ボクーさん、そして、現地で知り合ったサイクリスト、クロードさんから教えてもらったのだ。その時期、標高2,642mのガリビエ峠はまだ閉鎖されていて登る事はできなかった。いつかガリビエ峠も走ってみたい。そうは思ったが7月に夏休みはとれないし、自分の実力ではそんなハードなコースは完走できないだろうから、8月の盆休みにサイクリングに来る手だなと考えていた。

 

ラ・ベルナール・イノーを完走した夜、久保さんからラ・マーモットに参加した時の話を聞き、選手として挑戦したい気持ちが沸いてきた。「ラ・マーモットの方がラ・ベルナール・イノーより何倍もキツイ。でもペース配分に気をつければ弦巻さんも完走出来ますよ」そう言ってもらえた。初めてシクロスポルティフに参加し、その面白さ、フランス自転車文化の奥深さ、を実感した日だったからこそ、だろう。

 参加できるのは勤続30年のリフレッシュ休暇か、その前後の年だろう。9年後だ。帰国後、無理しない程度の貯金を始めた。JCRCのレースは長距離モノを選ぶようになり、1年のメインターゲットをツールドおきなわにした。まずは1回普久川ダムを登る80kmを完走し、次に2回登る120kmを目指そう、と。だが現実は甘くなく、連続DNF。回収バスの常連になってしまった。その間コースは100kmまで伸び、完走するまでのチカラとアタマをつけるのに4年かかった。そんなに拘るのは傍から見れば滑稽だっただろう。ラルプ・デュエズ(行った後2年位はアルプ・デュエズと言っていたが会話で上手く伝わらないのでラルプ・デュエズに戻した。)と、ラ・ベルナール・イノーを走った経験がモチベーションを上げ続けた。ユーチューブやフェイスブック等インターネットで情報が手軽に入手できるようになったのも大きい。2006~2007年頃、日本語の情報はサイクルスポーツ誌に掲載された久保さんと馬場さん(シクル・マーモット店主)の記事位しかなかった。

 知り合いのラ・マーモット完走者は皆おきなわ120km以上を走破していたので、翌々年140kmに挑戦したが、2回目の普久川ダム関門で足切りになり、このレベルには到達しないと明らめた。ツールドおきなわ100kmの記録は約4時間。過去の長距離イベント、東京〜糸魚川ファストラン294kmは約15時間、ラ・ベルナール・イノー230kmは約10時間、いずれもギリギリの完走である。2014年、同じ獲得標高5,000mを目指した不動峠20本に17時間近くかかった。だからラ・マーモット完走は五分五分だと思っていた。2015年は1月から6月までに久保さんが言っていたように2,000kmは走ろうと思っていたが、かなわず1,500km。

 ただ、自分は周囲に恵まれていた。エタップ・デュ・ツールを6回完走したPさんは筑波山に練習に行く度に完走の為のコツをいろいろ教えてくれたし、久保さんからは高強度と急坂のトレーニングが効果的と教えてもらった。チームWEMOのZUZIEさんとガッチの経験談には憧れが倍増した。T-PLANインソール、細川氏のアドバイスで、足がツラない、攣っても回復しやすいように、ギアはフロントをコンパクトより小さいトリプルの山岳仕様にして臨んだ。(現地ではダブルのコンパクトで最大ギヤ30T以上の選手が大勢を占めていた。) 実体験のある人達の助言がなければ、完走はかなわなかったと思う。

 

○ラ・マーモットに参加した日本人選手

 ラ・マーモットは日本での知名度はまだ低いが、世界的には大人気でGCNのランキングではベスト3の大会だ。毎年11月初旬の募集開始後あっという間にソールドアウトになってしまう為、ほとんどの参加者は各国のツアーオペレーターを介して申し込む。そうすると少し後から(たぶん2月位? 保証はできない)でもエントリー可能なのだ。日本では(株)ルーセントアスリートワークスの久保信人氏がその権利を持っていて、現地でのコーディネイトや欧州での豊富なレース経験に基づいたアドバイスを受けることができる。

 久保さんを通じてラルプデュエズに集まった日本人選手は4人。

 日立市イマイスプロケッツの斉藤さんは2015年で日本人最多6回目の出場となる強者。日本人ではまだ5人しか走ったことがない、7日間の山岳ステージレース、オート・ルート(Haute Route)も好成績で完走されている。この年は早めに現地入りして短距離レースに参加し、新コースの試走をして入念に準備されていた。試走時の情報を我々にも伝えてくれて、これは本番でとても役に立った。ラ・マーモット当日が「大晦日」とも言っていた。つまり、趣味的な1年がこのレースを基準に回っていらっしゃる。この気持ちは参加した今、とてもよく分かります!

松戸市シクル・マーモットの近藤さんと、ロングライドファンのKさんは、二人共漫画にもなったカリフォルニアのデスライド、距離207km、獲得標高4,572mを完走した実力者で、とても楽しい。二人共「やろう」と思った事は、即、実行!という感じ。近藤さんは英語堪能で旅のいろんなシーンで通訳して戴いた。そして荻島美香さんと同時にラ・マーモット初の日本女性選手となった。(「じこまん」第3巻)

そんな我々4人を現地でサポートしてくれたのが、久保さんの友人でトップアマチュアチーム、ブルガンブレス監督のクリスチャン・ミレジさん、2015年37歳。英語バッチリ、強い体幹、高い人間性、思わず男が男に惚れてしまいそうだった。ハンサムでカッコいい男で、奥さんがまた美人なんだ。(写真だけで実際に会ってはいないけど) 彼のチームからプロになった選手もいるそうだ。

 欧州在住の元シクロクロスチャンピオン、荻島美香さんが参加し、しかも表彰台に上がる快挙を成し遂げた事は、日本に帰ってからシクロワイアードを見て初めて知った。実際の処、表彰式の時間はコース上に居たし、面識もないけれど、知っていたら現地でお祝いを言えたかもしれない。

 

○到着日(7月1日 水曜日)

 同日午前1時羽田発のANA、ルフトハンザ共同便で午前10時にリヨン着。フランス人はストライキを良くやる。まさかバカンスシーズンにはやらないだろうが万が一のリスクヘッジと、出発と到着の時間を考慮して便を選んだ。機内ではレースの事を考えひたすら寝ていた。同行の近藤さん、Kさん、迎えのクリスチャンとは既にフェイスブックで知り合っていたので、迷う事はなかったし、すぐ仲良くなった。

 空港を出ると、湿度は少ないがとても暑い。熱波がヨーロッパを覆っていた。荒天の場合に備えモンベルのレインジャケット等いろいろ持ってきたが、暑さ対策の方が重要になりそうだ。

 

 まず、アルベールビルのクリスチャンの実家へ。留守番のダーウィン(愛犬のラブラドール)が迎えてくれた。少人数なればこそで、今夜はホームステイなのである。

 家庭菜園の美味しい野菜と全粒粉パスタの昼食。ミレジ家はイタリア系フランス人なんだそうだ。だからパスタはブルターニュで食べたような茹で過ぎでなく、ちゃんとしていた。「フランスのパスタは茹で過ぎ」って9年間言い続けてたわ、オレ。フランスの皆様、ごめんなさい。そしてフランスに来る度思うのは野菜の味がしっかりしていて旨い事。Kさんが付け合わせ的イメージがあるサラダが立派な一品料理になっていると言っていたけれど、まさに!である。その後も彼が述べる感想は本質をうまく突いていて、その洞察力と表現力が羨ましかった。

昼食の後は、景色の素晴らしい庭で昼寝。クリスが薦めたからだけど、後から考えるとこの昼寝は長旅からの回復→ラ・マーモット完走に結構な意義を持っていた。

 

 目覚めた後は、自転車を組み立てて点検。ポラールのケイデンスセンサーが反応しない。ポラールはセンサーの位置取りが結構シビアなので、いろいろ角度や距離を変えたりしたがダメで。こりゃ電池切れかな・・・いやそんな訳ないと思うけど・・・日本を経つ前スピードセンサーは交換したがケイデンスの方は今年の春に交換済みなので敢えて変えなかったのだ。軽いライドの後自転車店に寄って新しいセンサーを買う事にした。

みんなで、タミエ峠へ(そんなに軽くはなかった)。頂上からは遠くにモンブランが見えた。クリスチャンは僕らの地力を判定していたのだと思う。こちらは彼が下り坂で長時間手離し運転するのにびっくりしていた。何てしっかりした体幹とバランスなんだ!

 

 近所の自転車店は大きな店で、無事センサーを購入できた。帰宅して早速取り付ける。が、反応せず。

うーららぁ! 説明書見ながら、いろいろ位置を変えたけどダメ。

しょうがない。諦めるか! ケイデンスは無くても走れるし。

って、トコで夕食の時間。

 アンニック(お母さん)の手料理メニューは、レッドメロンと生ハムの前菜、家庭菜園の美味しい野菜のサラダ、サーモンのキッシュ、ボフォールなど地元のチーズ数種類、デザートはクレームブリュレとショコラプディング。サラダにつけるソースはマスタードをオリーブオイルでのばしただけの、この地方独特のものだがこれが旨いのだ。肉にも合うし。帰国してからも少しバルサミコ酢を加えてよく食べている。台所を覗いたらブルターニュの「ルガール」ブランドの生クリームがあった。美味しいから使っているそうだ。流石です。仕事でよく知っているこの会社の乳製品、特にバターは品質優良で、毎年政府から金賞等いろいろな賞をもらっている。一流料理雑誌Cuisine et Vinの、バターのブラインド評価記事では日本で有名なエシレを抑えてナンバーワンに輝いている。

食事は庭のテラスで戴いたのですが、美味しく、とてもリラックスした時間だった。お父さんのモリスも良い人だった。といっても58歳だそうで、俺より5歳年上なだけである。地元のチーズが何故旨いかを熱く語る自転車チーム監督の話を聞きながら、故郷を愛してるのって、カッコいいよなぁ、と思っていた。

○前々日(7月2日 木曜日)

 当初この日は、透明度がとても高いアヌシー湖にトレーニングライドに行くことになっていたが、3人で相談し、ガリビエ峠を登るよう変更してもらった。グランフォンドの2日前に山に登る事は、本来御法度だ。わざわざその点を指摘したブログを読んだこともある。本番までに回復できないからね。ガリビエは下から登れば35kmにもなるし。そこで1〜2時間のライドになるよう監督がコースを設定した。車でテレグラフ峠を登る。かなりハードな登りだ。山岳リゾート基地の街、ヴォアラールを過ぎ、頂上まで8kmの駐車場から、ゆっくり走り始めた。不思議な事に昨日あれだけやっても動かなかったケイデンスセンサーが作動した。何故直ったのか不明だけどラッキー。本番でもこのまま行ってほしい。

そんなことよりも。

 

 森林限界を越えた、その雄大な景観は本当に素晴らしかった!! 

風景に感動するなんて何年ぶりだろう。

テレビや映画で見るのと実際にその場に身を置くのでは大違い。分かっていた筈のことを久しぶりに思い出した。

 オレ、地球人で良かった、自分は今、確かに生きてるんだ!と思ったり。この辺りでコンタドールがアタックしたンだぜ、クリスの解説にアタックごっこしてみたり。

とても幸せな時間だった。Kさんは沢山の写真を撮り、近藤さんは高山植物を愛で、3人共大満足である。

 頂上近くにはカメラマンが居てサイクリストやモーターサイクリストの走っている姿を撮影していた。ネットで販売しているのだ。此処はディズニーランドか? いやいや自転車バカにはディズニーより遥かに夢の国である。天気が良かったからね。7月の第1〜2週がベストシーズンなんだそうだ。標高が高い為、暑さもそれほどではなかった。

幸運だった。

頂上ではいろんな国の人が、それぞれポーズを工夫して記念撮影しているのが可笑しかった。それだけ特別な場所ってことだよな。

駐車場に戻り、すぐ近くのレストランで郷土料理の昼食。それからレースコースを逆走する形でラルプデュエズに向かう。グランドン峠の急坂を見れたのは非常に役立ったし、クロワドフェール峠が近いのを見ることができ、頭の中のコース図が実感できた。ブールドワザンの手前で、帰国する直前の久保さんに会うこともできた。モンブランマラソンウルトラ80kmを完走し、人生の次のステージを間近に控えた彼は、とてもいい顔をしていた。クリスチャンと話しているのを見ると1歳違いの2人の絆が深いのがよく分かった。クリスは久保さんが監督をしていたチームで選手だったのだ。

我々のホテルは、ゴールからすぐ近くのキッチン付き。4ベッドルーム、2バスルーム、2トイレ、ダイニングとリビング。ホテルにはジムや温水プールもある。フロントのお姉さん達は美人揃いでフレンドリー。

ここで斉藤さんと合流した。フェイスブックでやり取りした時に思っていた通り、自転車競技に真摯でストイックな方だ。彼が走るマーモットは完走を目指す我々3人とはまるで違う、欧州最高峰の市民レースである。いきなり騒々しい3人組が来て、やりにくいンじゃない?と聞いてみたが、楽しいですよと答えてくれた。度量大きいなあ。

 

ラルプデュエズの街はTシャツに短パン、すね毛を剃った男と女だらけだった。イエンス・フォイクトのShut Up Legs Tシャツを着ていたお兄さんとは思わずハイタッチ、お互いにエールを送った。

夕食は山口さんに教えてもらった、エーデルワイスレストランへ。日本の取材陣御用達の店である。日本から予約したら丁寧な返事をくれたし。女将さんがちょっと注文たてこむとテンパっちゃうのが可愛らしかった。

 

○前日(7月3日 金曜日)

 朝、前日のガリビエ峠のリカバリーライドで1時間、ラルプデュエズの上にある湖まで走る。その後洗濯したりやホテルのマッサージ受けたりして過ごした。

 昼食はイタリアンレストランでバジリコスパゲッティ。ここもちゃんとアルデンテ。しつこいけどフランスの皆さん9年間「フランスのパスタは茹ですぎ」なんて言い続けてゴメンナサイ。こちらのお店はウエイトレスさんのノリが良くて可愛かったンだよねー。

そのまま受付に行く。後ろに並んだ人をふと見ると、肩から固めて腕を吊ってるじゃないですか! 昨日練習で鎖骨を折ってしまったそうだ。なんとお気の毒な。自分も骨折経験者なので人ごととは思えず、次の挑戦の成功を祈った。

その後自転車にゼッケンを付け準備。斉藤さんと近藤さんは街中の本格的なスポーツマッサージに行った。かなりレベル高くて良かったそうだ。

国内のイベントに出る時は通常前日入りなので、いろいろやる事が多い。今回は時間的余裕があったので、ゆったり落ち着いた気持ちになれて良かった。クリスチャン監督は明日の補給食サンドイッチを作った。日本の食パン位の甘さの小型パンにハムとエメンタールチーズをはさんで。食べるのが楽しみだ。近藤さんがジャージにクリスのサインもらうのを見て俺も書いてもらった。

夕食は、監督が調理した、胃の負担が少なく明日の力になるメニュー。アルベールビル出身の彼が作ったのは、サヴォワ地方独特のブラックベリーを練り込んだパスタにペンネを少し混ぜたもの、トマトとモッツァレラのカプレーゼ、そしてホテルの近所でなくわざわざ自転車に乗って買ってきてくれたバゲット・パイヤス。ナイフで切ろうとしたら、このパンは手でちぎって食べるのさ、と教えてくれた。なかなかウマカッタです。翌日にそなえ20時には寝床に入った。

 

○当日(7月4日 土曜日)

 4時起床。日本にいる家族から応援のメッセージが入っていた。気合いが入る。

朝食は、パルミジャーノチーズがけペンネとコーヒー、ジャム付パンなど。

朝の準備をしてから、車でスタート地点のブールドワザンに降りる。多くの選手は自転車で下っていた。イギリスのサイクリスツ・ファイティング・キャンサーチームのメンバーが通りがかり、一緒に写真を撮らせてもらった。自分は25歳の時に胃がんになり80%を切除した。その時多くの方に支えてもらった。そんな訳で今はジャパンフォーリブストロングや、別府選手がサポートしている小児がん患者とその家族のためのチャリティ、シャインオン!キッズのビーズ・オブ・カレッジ(勇気のビーズ)に時々参加している。

https://ja.sokids.org/programs/team-beads-of-courage/

今回も。ビーズと共に挑戦するんだ。

 召集場所とスタート時間はゼッケン順に決まっていて、300番台の斉藤さんは7時、残る3人は3000番台で7時30分のスタートだ。待ち時間に何人かと話したがベルギー、オランダの人が多かった。関西弁なまりの英単語の羅列だがそこは自転車乗り同士、話は通じるのだ。大抵の人は我々の事を欧州に住んでいる日本人と思うようで、マーモットを走るためだけに来たと言うと「そりゃスゴイな、幸運を!」と応援してくれた。旅人効果ってヤツですね。会話の次のパターンは「1人で来たのか?」で、あそこに仲間がいると、2人を手で示すとほとんどの人がジャージに注目した。

「Cycles Marmotte !?」

シクル・マーモットは自転車店のチームで店主の馬場さんはラ・マーモットを4回完走していて、このレースが店名の由来なのだ、という説明を5回はやった。最後の方は滑らかに説明できるようになったもの。(笑) その他ここまで何千キロ走り込んで来た?という話題も定番。ラ・マーモット完走に最低2,000kmは必要と9年前久保さんは言っていた。クリスも会って直ぐに聞いてきた。1,500kmと答えた時、彼が十分だと言ってくれたので、俺は即ソッチの案を採用した。だから、あるベルギー選手が自分は6,000kmしか走っていないから!完走できるか不安なんだと言った時、大丈夫!と勇気付けてあげたよ(苦笑)。

スタート地点に移動すると、ますます気分は高揚してくる。周りの選手達もワクワクしているのが伝わってくる。

 

○ブールドワザン〜グランドン峠〜サン・テティエンヌ・ド・キュイーヌ

7時27分、スタート! ちょっと泣きそうな位、嬉しかった。初めの7km程は平坦区間である。近藤さんとKさんは、かなりのスピードで先に行ってしまった。自分は心拍計を見ながらペースの合う集団に入って進む。

10km地点のアレモンからグランドン峠への本格的な上りが始まる。この辺りは勾配がコース全体を通し一番急な場所がある。下って15%の上り返しという所も2、3回あって、大人数だとやはり詰まってしまったが、2日前に車で下見していたので上手くこなせた。

序盤は皆元気だし東洋人は目立つ為、良く声をかけられた。(こちらからも声かけましたが)。英語ができる人が多かった。自分が出場したサイクリングイベントの記念ジャージを着ている選手も多く、それが話のキッカケになったりする。「勾配30%って背中に書いてある! マジ?!」「ホンマやで、クレージーな坂なんやけど、ちゃんと走り切ってん」とか。斉藤さんも着ているHauto Routeのジャージの人は無条件で尊敬してしまうし。別府史之選手の日本チャンピオンジャージレプリカを着ている選手(オジサンです)もいて、突っ込んだらちょっとハズカシそう(笑)。俺もフミのファンなので、嬉しかったし元気が出た。

 

「そのトリプルギヤ、いいね」 後ろから声をかけられた。沈着冷静なイギリス紳士だった。「うん。身体の負担少なくクランク回せるし、ムッチャええよう。俺、イギリスの人が書いたマーモットのブログを沢山読みましたよ。トレーニング方法とか、完走のコツとか・・・」と話が盛り上がったが、ふと自分の心拍計をみると心拍数が150を超えていた。彼と話したくて頑張りすぎていた。「あ、俺ペース早すぎるから下がるわ」と言うと、紳士はとても印象的な事をやってくれた。

「自分のペースを守ること、補給を沢山摂ること、これが一番だ。さもなくば、」と、左手の閉じた5本の指を開いて、「ボン!」

はははっ、全くその通り! 

ここに至るまで何回、俺はその「ボン!」をやってしまった事か! 

今日はしっかりとペースを守って完走つもりです。

 やがて森から草原に変わり、明るい視界が広がった。道のずっと先まで自転車の列が続いている。ちらっと後ろを見ればまたずっと自転車が続いている。素晴らしい景色だ。

グランドン峠の頂上付近で、クリスチャン監督から補給を受けとる。36km地点の峠には公式補給場所がある。必要ないのに少し覗いてフルーツ類をもらい、トイレを済ませて下りに入ろうとした時、フランス人3人組から工具を貸してくれと頼まれた。1人のシューズのクリートがゆるんでしまったようだ。って、靴見せながら喋るからそう判るンだけど。いや、よく見たらネジ1個ないぞ。「3人居て誰も工具持ってないのかよ?」と、突っ込みながら、快くお貸しする。ネジを一所懸命締めている彼は不器用そうだ。

「ありがとう、日本!」

「どういたしまして、フランス!」

グランドンの下り20kmは危険なのでタイムが計測されないようになっている。長い下りは、ある意味上りより大変で、肩が凝り、ブレーキを持つ指先が痺れてきた。話には聞いていたが本当にそうなるのだね。途中で休んでいる選手もいてそうしようかとも思ったが、結局は標高1,924mの峠から450mのサン・テティエンヌ・ド・キュイーヌの街まで一気に下った。

 

○〜モンヴェルニエ〜モラール峠

 平地では集団が自然にできる。補給を定期的に摂って集中もできていた。

そして「靴ひも」モンヴェルニエのつづら折りへ。道幅は狭い。上も下も自転車の長い列が見えるのはグランドンの時とは違う、面白い光景だった。だが、暑い! 10時30分を過ぎ、本格的な暑さとの戦いも始まっていた。なにせ風景面白いのだがそれについて喋る気が起こらない。と。「アツイゼ、コノヤロー!」って叫びながら走るゴリラのようなオジサン選手に抜かれた。逆ギレしてる、でも速いンだよな。暫くして上の方から再びその選手の叫び声が聞こえてきて、横の選手と顔見合わせて笑ってしまった。777mのモンヴェルニエの上の方は両側に岩の壁がありその間を進む。ツールの公式ガイドブックの表紙になるだけの事はある。その後の小さな村も忘れられない。5歳位の男の子が選手達とハイタッチしていた。俺もその列に並び、優しい笑顔を作って「Je suis japonais」と挨拶した。この子にとって初めて会った日本人は俺だろう。男の子の少し先で祖父らしい方が見守っているのに気づいた。お互いに頷き合う。

 

 一度下って幹線道路を走る。集団は連結して少し大きくなった。それもつかの間で、モラール峠への登りが始まって小集団になる。とにかくア・ツ・イ! 沿道に住む人たちが水を分けてくれるのがありがたかった。やがて道は森の日陰となったが、自分的にはこの区間が一番しんどかった。そんな中、30代と思しき東洋人の選手が隣に来た。どこから来たの?と聞くと韓国の人だった。韓国人のエントリーは一人だけだという。「僕は歴史を作っているんです」彼は青年らしい自負を示すとスピードを上げて去っていった。後日リザルトを見たら9時間台でゴールしていた。本当に歴史を作ったね。カン君、おめでとう。

 

次の給水所には長い列ができていた。後5~6km走れば食事もある補給地点なのだが、水が欲しかったので、その列に並ぶ。自分の順番が来るまでずいぶん時間がかかった。

給水して気持ちが落ち着くと再び元気が湧いてきた。

 

一緒に走っていた選手の電話が鳴った。「忌々しい電波め!」と英語で言いながら、彼は止まって電話に出る。後ろから聞こえて来た口調はとても丁寧だったので、仕事の電話かしらん。レース中に仕事の電話は勘弁してほしいヨなあ。なーんて思っていたら、自分の電話が鳴った(笑)。

監督からだった。「今、何処にいる?」 余りにも遅いのでしびれ切らしたンだろうなあ・・・へへへ。

 101km地点アルビエ・ル・ヴューの補給所では食べ物を仕入れて、すぐに出発した。モラール峠は103km地点ですぐ近くだ。

 

○〜クロワドフェール峠〜ブールドワザン

 次の峠までは20km。この辺りで前輪がスローパンクしているのに気付いた。タイヤに目立った傷はなかったが、バルブが少し曲がっていた。そういえばスタート地点に移動する時よろけてぶつかって来た選手がいた、その時かもな。チューブを交換しようとも考えたが、峠ではクリスチャン監督が待っていてくれている。そして俺は不器用だ。ポンプで目一杯空気を入れ、このまま進む事にした。

 5人位の小集団になったり、単独になったりしながら走って行く。自分がだいぶ疲れているのが分かっていた。116km地点のサン・ソルラン・ダルヴに着くとパン屋さんの前で、センタと同じ年頃の男の子が応援してくれていて、時間も気になるが思い切って少し休む事にした。塩気が欲しくてバゲットサンドとコーラを買った。家族経営の店で、男の子は店主のお孫さん。俺もそうだけど、彼の応援で次々に選手達が止まってコーラや菓子パンを買ってゆく。凄腕セールスマンなのだった。

 さあ、クロワドフェール峠へ! 気持ちは引き締まったものの、村を出ると勾配が12〜15%で、足がピクッと来た! 攣る前兆だ。こりゃしばらく静かにやり過ごさなきゃと、軽いギアで慎重に進んでいると、道端で休んでいる近藤さんとKさんに会った。しかし止まったらツルかもしれないので、挨拶しただけでそのまま進む。

 勾配はその後緩くなって少人数の集団になったり、バラけたりしながら進む。暑さと疲労で歩き出す選手が増えてきた。サイクリスツ・ファイティング・キャンサーチームの選手が歩いていたので応援すると、首を振りながら「Crazy, absolutely crazy 」と答えが返ってきた。白人にはこの暑さ・40℃以上は、黄色人種よりずっとキツイいんだろうなあ・・・

自分的には湿気が少ないのでまだマシだった。

高度が上がり、下界を見れば絶景である。ガードレールは無い。

 

峠2km手前。横に並んできた自転車を見たらフラットハンドルだった!

思わず「えっ そんなハンドルで上がって来たん?!」と話かけると、

「ああ、このハンドルの事? 別にドロップと変われへんよ」とおっしゃる。

「えー? 絶対ドロップの方が楽やって!」

「自分、日本人やったら、ヒロシゲ知ってるやろ? ヒロシゲ・ウタガワ」

俺の顔の?マークを見て彼は言い直した。「ヒロシゲ・アンドー」

「! 浮世絵の安藤広重のこと? 彼は日本の誇りです」

余りの展開の違いに戸惑いながら、とりあえず合わせてみる。この人俺と同じB型だな。

「そう、俺、あの人の絵の大ファンやねん。構図とか、色使いが素晴らしい、特にあの青い色!それでああでこうで・・・」

オランダ人のポールさんは俺の知らないムズカシイ単語も交えながら、とうとうと広重論を展開してくれた。

まさか、アルプスの峠でそんな話を聞く事になるなんて。人生一寸先はわからない。

 

峠で、クリスチャン監督に前輪を交換してもらい、補給をもらう。時刻は既に17:30。ブールドワザンの制限時間18:15に間に合わないのは確実だった。近藤さん達がリタイアすると決めた事を知る。それであそこで休んでいたのか・・・俺はたとえ足切りにあってもゴールまで自分の足で行くと、意志を伝える。すると追加の補給が渡された。

腰を押してもらいながら加速して再出発! プロみたいでちょっと嬉しかった。

 欧州の選手たちの下りは速い、と斉藤さんが言っていたが、本当に速い。

登りで抜いた選手達にバンバン抜かれていく。確かに自分は日本でも相当遅い部類に入るが、それにしても速い。ポールさんが友人と共に追いついて来て、暫く一緒に走っていたが、やっぱりチギラレてしまった。下りきってブールドワザンまではデンマークのアナス選手他2、3人の選手と先頭交代しながら進み、足は使ったが自分としてはかなり速いペースを維持できた。頭の中ではツールドおきなわで足切りになったシーンが浮かんでいた。だから余計に思うのだ、自分の足でゴールする、と。

そしてラ・ベルナール・イノーを走った経験から日本のレースみたいに時間通りに足切りしないんじゃないか、主催者にとっても初めてのコースだから少しは待つ筈だ、と全くアテにならない「計算」もあった。そもそも、ホテルがゴールの近くなので、失格になろうがなるまいが登らなければならないのだし。

163km地点、ブールドワザンの補給所まで来た。本来なら休みたいところだが、そのままラルプデュエズに突っ込む。18:15は過ぎていたが、何時だったのかは憶えていない。

誰にも行く手を遮られなかった。

これで、自分の足でゴールまで行けるのは確定だ!

 

○ラルプデュエズ

 登り始めの勾配がキツイ、15年振りに登る山。サラアシで登るより相当シンドイが、想像していたよりは楽だった。これは結構イケルかもと、少し速めのペースを維持したのがいけなかったようで、3km位行ったところで足がツッタ。たまらず自転車を降りた。でもこれ位なら暫く休めば復活するレベルだ。芍薬甘草湯を投入し、道端に座っているとヴィーニファンターニのチームジャージを着た二人組から「ガンバレ、日本!」と応援をもらった。

もちろん、やるとも! もう少し休んだら、ね。

 そこに我々のチームカーが通った! Kさんが俺を見つけてくれたそうだ。ありがたかった。水や補給食を再びもらう。それを見て2、3人の選手が水をくれとやってくる。クリスチャンは俺の分を気にしてくれたが自分の分はもらったので、残りの水は彼等に分けてもらった。「先に晩メシ食べてて」と言い、そしてゆっくり走り出す。でもまた攣るので、復活するまで押して行く事にした。

 この時間帯のラルプデュエズでは、他の選手達も、自転車に乗っている、歩いている、休んでいると違いはあるにせよ、なんとかゴールに辿り着こうしている者達の連帯感があった。言葉を交わさなくても頷いたり、ニッと笑ったりするだけで「お互い頑張ろう!」という気持ちが伝わるのだ。思い込みだけかもしれないが、やっぱり、ここは伝説の場所。自転車乗りなら一度は走りたい、走ってほしい、舞台だ。

 

 21のカーブ毎に歴代優勝者の名前が掲げられている。押し続けて11番まで来た。そこはベルナール・イノーさんのカーブだ。彼は自分にとって最大のヒーロー。2006年ブルターニュで会った時の事を思い出す。嬉しすぎてロクに話せなかったよな・・・

もう一度サドルにまたがり、ペダルを回し始めた。

なんとか行けそうだ! 実はこの辺りから10%以上あった勾配が7〜8%に緩くなるのである。無理せず、しかし着実に回す事に集中した。少しずつ、残りの距離が減って行く。さっきのヴィーニファンターニの二人組が道端で寝ている。今度はこちらが応援すると「ヴィーニファンターニは死んだ(笑)」なんて言う。「ネバーギブアップ、イタリア!」

 

後4km、3km・・・イケルぞ! スピードは上がらないし、20時を過ぎ流石に夕闇が迫ってきたが、まばらな他の選手も、自分も、表情は明るくなってくる。電話が2、3度鳴ったが下手に止まるとまた攣るのが怖くて無視してしまった。仲間が心配してくれているのに、長時間待っていてくれていたのに、俺は自分の事だけ考えていた。。。

山を降りてくる選手達と頻繁にすれちがう。彼らが首に完走メダルをぶら下げているのが羨ましい。俺はブールドワザンの制限時間超過しているから、メダルはもらえないよなあ。選手の写真を撮るカメラマンも、撤収作業が終わりかけていた。

 

そして。

とうとう、ラルプデュエズの街に帰って来た。コース沿いのレストランやカフェで寛いでいる人達から拍手と応援をもらう。「メルシー!」お礼を言う声がうわずっているのが自分でも分かった。テレビで良く出てくるトンネルで暗くなったら少し不安になり、道をまっすぐ行けばゴールなのを知っていたクセに「ゴール何処やったっけ?」と何故か英語で独り言をいったら「この道を真っ直ぐだ、ついて来な!」と後ろから声がして、先刻自分を抜いていった若者が前に出た。あれ? 後ろにいたンだ! いつの間に? 

「あ、でも速すぎ!」意外な展開に、思わずお礼を言うより先に注文つけてしまった。彼は振り返りながら引っ張ってくれた。ゼッケンを付けていないので既にゴールしたか、明日のラルプ・デュエズ・タイムトライアルに出る選手だろう。ゴール直前でもう一度お礼を言ってフェンスのあるアプローチに入る。そしてゴール! 

とにかく。自分の足で走り切った。

とにかく。やった。

オランダの広重ファン、ポールさんとその友人に再会し、お互いの健闘を喜ぶ。

 宿に帰ろうとすると、ボランティアのお兄ちゃんが自転車のゼッケンをニッパーで切りながら「完走証はあちらで発行していますので、受け取ってください」と、言った!

俺も、もらえるのか! 行ってみると担当者が不在で少し待ったが。

確かに完走証を戴いた。これで正式な完走だ。そしてメダルも。自分のタイムに相当する銅メダルが欲しかったが、在庫がないからと、係のお姉さんは金メダルを差し出す。いや、それは本当に速かった人が努力の証としてもらうものだよ、断ろうとしたら彼女はどうって事ないじゃん って顔をして「金メダルの方がいいじゃない、あなたはベストを尽くしたのでしょ」

そう。確かに。今日は自転車人生で最高に頑張った。自分の中では金メダルに値する・・・そうだね、もらうよ! メダルの寄付として10ユーロを渡そうとすると、彼女は首を振ってお金はいりません、どうぞお持ちになってと。

改めて、受け取った完走証を見る。                            

 

静かな達成感が、心に広がった。

ホテルに戻る。仲間達から祝福を受ける。皆、食事に行かないで、ずっと待っていてくれた。だから斉藤さんからは連絡不足やゴール後なかなか帰って来なかったことを怒られた。クリスはレストランの予約時間を変更したりしたのだそうだ。完走証は明日の朝でも発行されるのだと・・・それは知らなかったが、自分の事ばかり考えていたのを反省した。

 

急いで着替え、皆でクリスが予約したトンネルの上の階段途中にあるレストランへ。斉藤さんは以前も来た事があると嬉しそうだ。22時前だったと思うが流石フランス、たくさんの人が食事していた。そしてこの店は、この旅で一番旨かった。体がたんぱく質を欲していたのか、気分は肉!でステーキを食べたけど、Tres Bon!! でした。付け合わせの野菜も。デザートはみんな絶賛していた。身体は疲れていたし、どんな話をしていたか余り憶えていないけれど、この人達と会えて、参加できて本当に良かったなあ、しみじみ思っていた。

チエミとセンタに結果の報告とお礼のメールを入れて、寝た。

 

○自分のリザルト

4,634位/完走者4,679人 タイム 13時間4分39秒

 

優勝者  ステファノ・サーラ選手 イタリア   5時間54分30秒

最終走者 ジョン・シンプソン選手 イギリス 14時間34分39秒

 

以下POLAR値

走行距離   174.9km

走行時間   11時間59分(7:27~21:00 TOTAL 13時間33分)

熱量     5,320kcal

心拍数    平均137bpm/最大161bpm

速度     平均14.8km/h /最大54.9km/h

ケイデンス  平均62rpm/最大134rpm

獲得標高   4,855m

○翌日(7月4日 日曜日)

 朝、散策に行く皆を見送ってから荷造り。

 自分だけ本日帰国なのである。なんやかんやと、だいぶ時間がかかった。

昼頃出発し、リヨン空港までクリスに送ってもらう。昨晩帰ってくるのが遅れたことを改めて謝ると、全く問題ない、お前のスピリットは素晴らしかった、それが自転車競技には重要なのだと、言ってくれた。

 尊敬している男に褒めてもらい、嬉しかった。

 復路はミュンヘン経由のフライト。 出発ロビーで待っているとTシャツに短パン、すね毛を剃った男がやってきた。

「ラ・マーモットに出ましたか?」 話かけると、「暑かったよね〜!」と即、大盛り上がり!

 

 デンマークのヤンは12時間で完走した。デンマークの選手は700人もいたそうで、エントリーの10%である。そりゃコース上で多くのデンマーク人選手に会うわけだ。話題はレースのあれこれから、やがて「いつから仕事?」と、変わって行った。インスタグラムで子供さんの写真を見せてもらった。センタより4つ下の男の子。

昨日は「選手」だったけど、明日からは「働くお父さん」、なんだよな。

彼のおかげで良い気持ちの切り替えができた。

改めて。 俺も、頑張ろう。

 

15年間抱き続けた夢を、9年間の目標への努力を、成功させることができた。会社やオッティモをはじめ、支えてくれた人達に、そして家族に、改めて感謝の意を表します。

本当にタフで、物凄く楽しい、自転車イベントでした。欧州の自転車文化の深さと「自転車バカに国境は無い」ことを、改めて認識しました。

 

ラ・マーモットの事は知っていても、フランスまで行くなんて、5,000mも登るなんて、と思っている人がいたとしたら、俺が完走した事実は、かなり気が楽になる効果がある筈だ。ガンで胃の80%を切り、延べ8ヵ所骨折した、愛煙家の53歳。走力のレベルは前述した通りで、高くない。この文章を読んでくれた貴方が、面白そうだ、自分でも完走できそう、自分ならもっと上位に行けると、実際に参戦してもらえたら、とても嬉しいです。

貴方には、あなただけのラ・マーモットが待っています。

渡航費用をかけて行く価値は、絶対にありますよ。

 

5.それから。そして、これから

 マーモットを完走し、しばらくしたら。突然思い出したんだ。

クロワドフェール峠でオランダのポール選手が広重の絵が如何に素晴らしいかを話してくれた。広重といえば、東海道五十三次。 「そうだキャノンボール、やろう」

 

初めて東京〜大阪間を自転車で走る事を意識したのは、確か1997年か98年。

当時所属していたチーム、スポルトピーノのメンバーがリレーして走ったのだ。このプライベートイベントは、サイクルスポーツ誌で記事になった。しかし俺は、仕事の都合で参加することができなかった。

 

次に意識したのは2010年。岩田編集長の「俺チャレ」だ。ほぼ同い年の彼のチャレンジは刺激大で、通勤電車の中からツイッターで応援していた。夜はゴールまで行って完走を祝福しようとまで思ったが、いや、自分は自分のフィールドで頑張ろうと、残業したのを憶えている。

 

距離550kmを23.5時間で割ると平均時速23.4キロ。ツールドおきなわ100キロ完走時の平均時速23.9キロと大して変わらない。山があるものの、集団走行で平地を時速40キロ近くで走っていた時間帯が長かったレースでそれ位。東京〜糸魚川ファストランでは峠を4つ越えたが平地は時速27キロ位で走っていた、それでグロス平均時速は19キロ位。だから自分だと東京〜大阪は、最速で30時間はかかる、と計算した。都市部は信号多いし距離長いし、実際はもっとかかるだろうし、俺はキャノンボールを達成できるレベルではない。

 

2015年12月。ばるさん達が主催するワークショップに参加し、貴重な情報を得ると共に、生半可な準備では完走できないと認識した。東京〜大阪を自転車で走っても、見返りは自己満足だけ。その為にここまでやる!って人達が集まっていて、とても心地良かった。

 

2016年は東京→大阪を2回、大阪→東京を1回走った。

最速記録は10月の大阪→東京、伊賀ルート、527km 35時間37分。

24時間以内で走るには、1.5倍速くならないと。

大阪→東京 スタート前 Hideさん撮影

大阪→東京時のゴール、日本橋

だがソロ500kmを36時間位で走れるのは分かった。それなら土日休みにできる。その後は長距離サイクリングを楽しむようになった。ナイトライドの楽しさにも目覚めた。走りがボロボロになっても、魂は自由になって行くような、不思議な感覚が好きだ。

 

2017年 千葉県1周  528km 3,175m up 34時間40分

2018年 境港~温泉津温泉 235km 1,768m up 16時間10分

2019年 鳥取県1周 499km 5,768m up 39時間43分

2020年 悪魔の左手 211km 5,054m up  21時間39分

2021年 The PEAKS鳥取大山 186km 4,791m up 13時間54分

2022年 3なみサイクリング 429km 3,544m up 34時間42分

 

2018年から鳥取県境港市で単身赴任となり、地元のチーム、コンクイスタに入れてもらった。リーダーはマルコ・パンターニの大ファンでNHKのチャリダーに出演したことがある、本名よりもパンターニM上というニックネームで知られている男。だからメンバー達は自転車の海賊だ。このチームに加入できたのは幸運だった。自転車に熱い人達ばかりが集まってる、楽しいチーム。朝練や、さくらおろち湖ロードレース、ヒルクライム松江北山といったイベントに皆で参加して楽しい時間を、Garage bar conquista with Barber YOMOで美味しい時間を過ごせている。

そして山陰の自然の美しいこと、食べ物の美味しいことといったら! 本当に素晴らしいです。是非、遊びに来てください。

 

2022年は満60歳。

「還暦」記念にキャノンボールに再挑戦することにした。54歳の時、3回やってできなかった事を60歳で初達成して、心残りを回収したかった。コースの主流が今までより若干距離の短い、伊賀・御殿場ルートが主流になってきたのも理由のひとつだ。といって、完走36時間の記録の俺が簡単に達成できるレベルじゃない。

 

1月から中海北部周遊サイクリングコースで練習を始めた。2月に200km走り、希望と現実のギャップを把握した。3月の健康診断で心房細動が発見された。循環器内科医をしているチームメイトに診てもらって、5月下旬に手術する事になり、その前に愛媛県今治から鳥取県東浜まで、しまなみ海道、やまなみ街道、うみなみロードを一気に走る、3なみ429kmを走破。それから心房細動をカテーテルアブレーション手術で治療してもらった。手術後、心電図を見て、手首に指をあてて脈が飛んでいないのを確認した時は「さっすが~」と感謝した。

記念写真撮りたくて、チームジャージ持って入院したさ(笑)

6月に新しい靴のインソールとライディングポジションをDISPAROさんに作ってもらい、7月に高い心拍数に慣れるためにレースを3本走り、8月に中海北部周遊サイクリングコースで半分の12時間、255kmを走った。最低グロス平均時速21km/hは確保できた。本番で使用予定の道具や補給食も試していた。9月は中旬まで長距離を走り込み、後半はテーパー期間として十分に回復してから10月の追い風の週末に決行するという算段。脚力レベルは足りないものの、自分比では相当向上していた。

しかし。9月初めの夜間練習時、車にひき逃げされてしまった。俺は反射材のついた蛍光イエローのビブを着て、テールライトをヘルメットと自転車の2個点灯していたが、犯人は公道を時速140kmで走ってきた。はねた後減速もせずに1.2km走行後、左前のタイヤがパンクして止まったそうだ。俺をはねた時に自転車をタイヤに巻き込んでいたのだ。

道端に転がってる俺を、後から来たドライバーお2人が助けてくれて、救急車を呼んでくれた。

右足首と骨盤の6カ所骨折し、足と腕の肉がえぐれる怪我を負い、そのままずっと入院。

良く生きていたものだ。死んでいても、不思議はない。

不在中フォローしてくれた会社の皆さん、病院スタッフの皆さんに、心から感謝しています。

入院中は、自転車や音楽仲間の励ましや、骨盤骨折した増田選手のリハビリツイートに励まされて、自分もリハビリを頑張ることができた。あんなに強い選手がこんなに頑張っているのだから、弱い俺はもっとやらなきゃ、と。 今後もずっと、不死鳥を応援します。

 

2023年1月中旬。事件4ヶ月後に退院。救助してくれた方にやっと御礼ができた。そして、職場復帰することができた。

チームメイトのポンサクさん夫妻には感謝しきれない程お世話になりました。退院後まずBARBER YOMOに行って5ヵ月振りに散髪してもらいました。

警察に預けていた壊れた自転車を、受け取りに行った。予め写真で見ていたより、酷かった。バラバラになった愛車を見て「ありがとな」と、思わず声がでた。俺の落車経験では、自転車が壊れた時人間は無事で、自転車が無事な時は人間が怪我していた。おまえが衝撃を吸収して護ってくれたから、俺、死なずにすんだんだな・・・

満60歳の還暦は、本厄でもあるんだよね。

400年以上も由緒あるお寺の住職をしているチームメイトに、厄除けしてもらいました。

本当、チームの皆にお世話になってばかりの、単身赴任生活です。

 

今は、足のリハビリを続けながら、入院中に発見された初期腎臓がんの手術をすべく、順番を待っている。それは救急車で運ばれて全身CTをやったから見つかった「不幸中の幸い」なのだが、気持ちは複雑で、治まらない。そして「初期」だから診察の度に手術日程見込みが3回先送りされて、頭では分かっていても気が重かった。そりゃあ、急を要する症状の患者さんが優先されるべきだし・・・今日、3月下旬に手術日程が決まって、一安心した。

だから。

こいつを片付けたら、本格的に次の目標に向かうんだ。癌を摘出しても別の何かが来るかもしれない。来たとしても。

 

入院中、自分の自転車人生をこれからどうしようか、考えていた。友人を訪ねながら日本縦断とか、米国横断とか、父が若い頃赴任していたグアテマラ旅とか、数件あるのだが、俺が第一にやりたいことは何だ?って。 

そして、やっぱり。ずっと想って来た、あのグランフォンドを完走できるように、身体と頭を鍛えよう。貯金しよう。そう、決めた。

 

ラ・マーモット・ピレネー(La Marmotte Granfondo Pyrenees)

距離163km 獲得標高5,600m。実際に走るのは会社員を引退した翌年の予定。

www.youtube.com

marmottegranfondopyrenees.com

https://marmottegranfondopyrenees.com/en/marmotte-granfondo-pyrenees/

 

 

待ってろよ、ツールマレー峠!

 

                                                                              〈 了 2023年3月〉