クランクブギ CRANKBOOGIE

自転車と、ブルースと、旅と。

桃谷、1987

 1987年の秋。
 青年海外協力隊に参加しようと考えていた。一次試験には合格した。二次試験までの間に体のメンテナンスをしておこうと、まず歯医者に通い始めた。
その頃、午後になると毎日のように胃が痛かった。春の会社の健康診断で単なる胃炎と言われていたが、念のため別の病院に行った。
検査の結果は胃潰瘍がかなり悪いので、なるべく早く手術する必要がある。親の近くで手術しなさいと、紹介状を書いてもらった。
 胃潰瘍? 本当のところはどうなんだろう。当時、会社の先輩が二人相次いでガンで亡くなっていた。封筒を光にかざすと病名が読み取れた。

 signet ringcell carcinoma 印環細胞癌

進行胃癌の分類では4型に入る、癌でも進行が早いタイプだった。スキルス胃癌になる可能性もある。

事実は重かったが、ネガティブにはならなかった。治療に専念して復活するぞと思った。だが、どういう結果になるかは分からない。
 当時付き合っていたガールフレンドに手術する事を告げ「実は胃ガンなので、別れよう」と言った。彼女は黙っていた。本当に怒ると、なにも喋らなくなる人だった。俺は、強がっていても「死ぬかもしれない」という状況を一人で抱えたくなかったのだ。弱いよなあ。言ってしまった事を後悔したが、もう遅い。しばらく重い雰囲気の沈黙が続いた。
C美は「別れたない」とボソッと言った。

 父が会社の上司に紹介してもらったのが、大阪市内の桃谷にある、警察病院だった。

 入院当日、明石から病院に行くと、父と上司のS田氏、医者をしている叔父までが揃って俺を待ち構えていた。外科部長のK川氏はS田氏の重い結核を治療した方だそうだ。そして主治医となるK先生。
いいオヤジが5人も、俺の為に時間を割いてくれた訳だ。叔父に至っては東京から駆けつけている。絶対怪しすぎる。ガンだと知ってたからいいが、知らなければよけいに不安を煽るシチュエーションだ。ありがたいけど何か滑稽で、心の中で笑っていた。

 しかし話は「胃潰瘍で手術する」ということで、どんどん進むので、知っているとは言いだせなかった。後で聞いたら本人には告知しない方針にすると事前に打合せていたそうだ。22年前、ガンは今よりもずっと不治の病のイメージが強かった。

 病室は4人部屋で、俺の隣はブンさんというゴマシオ頭のおっちゃん。桃谷は、大阪市内でも韓国系の方が多く住む地域で、警察病院の患者さんも同様だった。
挨拶して胃潰瘍で手術すると言ったら、「アンタ、そらガンやで。今どき潰瘍で手術なんかしまっかいな。」と、いきなり宣告されてしまった! 至極まっとうな見解である。隣で母が引きつっていたのを覚えている。ブンさんもガン患者だった。
リョウさんという患者友達と黙って病院を抜け出してはパチンコに行っていた。
検査の時間になっても帰って来ないので、全館放送で呼び出しがかかるのが名物となっていた。僕ら残った患者は、放送に向かって「(病院には)おらんでえー」と声を合わせ、笑うのがお決まり。「パチンコ屋まで(放送用の)線つないどきましょか?」「きっと今日は良う出てるんやで」

実際景品のお菓子をよく分けてもらった。ブンさんは飄々としていたが、周囲への気配りのきく方だった。俺も元気の出る言葉をもらった。
「手術なんて怖いことないで。手術したら悪いトコぜーんぶ取るんやから。今はアンタ病人やけど、終わったら単なる怪我人や。ケガは必ず治るもんやで。」
この台詞、今では俺のネタだ。
そう。手術する程病気が重いと思うのではなく、手術できるのは病の程度としてまだ軽いと認識すべきなのだ。それは退院日のメドがある、という事でもあった。

手術前の2週間は事前データ収集で、毎日何かの検査をした。それ以外は手持ちぶさた。仕事関係の勉強本を持ち込んだがなかなか進まなかった。よく読んだのは近藤紘一の「目撃者」だった。ベトナム戦争からインドシナに深く関わったジャーナリストの、集大成というべき分厚い本。実はこの方もガンで亡くなっていた。

深夜に起きた晩があった。
ある個室の前に家族の方が何人かいて看護婦さんが走り回っていた。
翌日。その個室には誰もおらず掃除されていた。その患者さんと面識はなかったが、やはり死ぬという事を改めて考えた。考える時間はたっぷりあった。


 主治医のK先生は患者には治療計画や処置の目的をきちんと説明する、親切な方だったが、看護婦さん達からはちょっとモタつくと厳しい指導が入るので恐れられていた。外科医ってなぜか短気な人が多いよね。
 阪大を首席で卒業し、手術の腕もさることながら術後のケアの分野では相当有名なんだそうだった。
「彼は大したものなんだよ。 国籍は違えども」
K川さんは韓国籍のK先生を紹介する時、わざとそういう言葉を使った。ソウルオリンピック前年だったが、当時はまだ韓国や朝鮮の人を蔑む風潮が残っていた。Kさんが学生だった70年代は、もっとひどかった。本人に聞いた事はないが、苦労と努力は大変なものだったと思う。韓流ドラマを見た事はない。しかし、その功績は素晴らしい事だ。

 手術前日に二人きりで話した時、俺は自分がガンだと知っていることをやっと話せた。K先生は驚かなかった。お互いに頑張ろう、と握手をした。胃潰瘍というのはまるっきりウソではなく、併発していたのだそうだ。だから痛みが出て自分から医者に行くことができた、という構図だ。

 当日は両親、弟のT弥、会社のT田先輩が立ち合ってくれた。本人は高校時代の大腿骨骨折以来だが手術は三度目、しかも全身麻酔なのでお気楽だった。「自分の出番」は手術の後からだ。K先生は時間をかけて、ガン細胞が何処まで広がっているかを顕微鏡で確かめながら、全摘出でなく、胃の20パーセントを残して切除してくれた。
胃が残れば、残った分、回復が早い。


手術後の晩は集中治療室で過ごした。苦しかった。長い夜だった。翌朝「若い奴は元気だ」、「お前は痛みに強い」という理由で個室に移動した。もといた4人部屋に戻らないので不審がられると思ったのか、その日担当だった看護婦さんは「実は容態が悪いからとかじゃないんだからね」と2回も言った。よけい怪しむっちゅーの。

こちらは、皆に元気だと言われてもしんどかったし、尿管に管さして袋に流し、鼻に酸素吸入し、お腹には二ヶ所膿出しのドレン管があってと、ベッドにハリツケ状態なので、気を遣わないで済む個室は有り難かった。しかし部屋代は高い。親に感謝だ。当時、俺は生命保険に入っていなかった。そして、ガンになったので退院後も暫く入れなかった。生命保険には必ず入って下さい。25歳でガンになる場合だって、たまにはあるのです。俺や、ランスアームストロングのように。(・・・同列に並べたが。ランスファンの方、大きな心で許されたし!)


苦しい事も少しあったが、順調に回復していった。1日の差はわからないが、3日前の自分と比べれば、楽になっている。日にち薬。「ケガは必ず直るもの」なのだ。

 手術後約4週間は社会復帰に向けた作業である。食事は重湯から柔らかいご飯まで徐々に慣らしながら戻して行く。赤ん坊からやり直しをするわけだ。
そして、体力も。手術して5キロ体重が減り50キロになった。胃を切った事で体力は急激に下がるのだが、脳は麻酔で寝ていたし、その事実を認識できていない。
まず事実を教えてあげなければいけない。
最初は簡単な事ができない、持続できない事がストレスになり、イライラしていた。
そうではなく、長時間お腹開けっ放しで、内臓を曝してたのだから、できないのが当たり前。一歩一歩確実に行こうや、と前向きに意識改革をさせて、かつ、病院でいくら元気でも実社会では通用しないのだという事実も認識させて行く。
そして社会復帰できるように体力をつけていくのだ。

手術後の検査結果は、転移の恐れなし。胃潰瘍で胃を切ったと同様に考えてよかろうとのことで、非常に安心した。胃がないから胃ガンにはならないが他の場所は普通の人と同様にガンになる可能性はあるぞ、と釘は刺された。

入院中は多くの方にお見舞いに来て戴いた。嬉しかった。その度に復帰に向けて頑張ろうと、モチベーションが上がった。中でも会社の同期のK原がよく顔を出してくれた。病院の屋上で夕方の街を見ながら、とりとめのない話をした。C美も休みには来てくれた。そういえば来日したマイケルジャクソンが体調不良で来たこともあったっけ。ミーハーな性分だから覗きに行ったが、特別室の前にはゴツいボディーガードが2人立っていた。むろん本人を見る事はできなかった。


2週間ほど個室で過ごした後、もといた4人部屋に戻った。個室は気楽だが、話相手もいないので飽きはじめていた。外科病棟は回転が早い。既に以前の仲間は退院していた。

 そして秀吉さんが入院してきた。さすがに名字は豊臣でも羽柴でもなかったが、秀吉という名前は本名である。大阪市中心部の出身で、80歳近い年齢だった。眼鏡をかけた布袋様といった風貌。高齢なのに肌が白くてツルツルしていて、看護婦さん達から羨ましがられていた。何の病気で入院してきたのかは、覚えていない。
誰にでも優しく、ユーモアがあり、少し話しただけで相当な徳のある人格者だと分かる。

俺は、秀吉さんの話す米朝師匠のような「美しい大阪弁」が好きだった。「〜してまんねん」なんて、20年前でも既に芸人さんしか使わないようになっていたが、秀吉さんが話すととても自然で、ノーブルな感じすらするのだ。俺は大阪暮しが長いが両親は北海道出身だし自分の生まれは東京。「美しい大阪弁」には憧れがあるのだ。

病室に我々二人しかいない週があって、消灯時間前に昔話を聞くのが日課になった。太平洋戦争の時、秀吉さんはビルマ戦線に行っていた。
外国映画じゃ日本兵は威張って現地の人をこきつかったように描かれているが、実際はそうではない。仕事の上下関係はあったが、お互い尊敬しあって仕事していたのだ、と力説されていた。自分を慕ってくれたと。
楽しいエピソードをいろいろと聞いた。

やがて話は、敗走の時に及んだ。
ビルマ戦線退却時の凄まじい状況は、俺の言葉ではとても表せない。
いよいよダメか、という時。 全員に上官から、手榴弾が渡されたという。
「これで死ね、ちゅうことですわ・・・夜になったらね、あちらこちらからドーン、ドーンて音がするんです。その音がする度に一人死んで行く・・・いたたまれんでね、自分もやっぱりここで死ななあかんのやろか、いう気になってきて・・・」
しかし、秀吉さんは部隊の仲間達と話しあった。ここまで来て日本に帰れなかったら、今まで犠牲になった人々の思いが無駄になる。日本に帰り、生きることこそ彼らへの供養であり、自分達の義務だ、と。
秀吉さんは工兵隊員だった。皆で筏を作り、脱出した。

「戦争は、絶対したらあかんのです。なんもええことあらしません。」
俺は半泣きで聞いていた。ただ頷くことしかできなかった。

本当に苦労された人こそ、人に優しい。そんな言葉の意味が虚しく感じられるほどだった。
両親から戦後の苦労話は聞いていた。俺の伯父の一人はノモンハンで死んでいて小学生の頃、祖父母と慰霊祭に良く分からず参列していた。
戦場にいた方の話を聞くのは、実質的にはその時が初めてだった。

秀吉さんは、「伝えたかった」のだ。と思う。
今、俺がこの文章を書いているのと同じように。



1ヶ月後、食事が軟らかいご飯になったところで退院し、更に3週間程自宅療養して体力をつけてから社会復帰した。研究所長の計らいで明石ではなく、親元から通える大阪の部署に異動した。(この異動先で学び、自分の仕事に対する意識が変わった。)
最初は弁当持参で1日5食。胃は切ってもまた大きくなると誰かに聞いていたが、大きさは変らず、胃腸が早く動くようになるのだそうだ。

はじめの1年間はクレスチンという抗がん剤を飲んでいた。2年後に、このガンについては完治したと放免になった。その間K先生は病院を変わったが、俺も病院を変え診察してもらっていた。その後も別の病気で診てもらったり、母までがお世話になった。
胃を切った後遺症は少しある。ダンピングと言って、時々血糖値が急激に下がり、手や身体が震え、冷や汗だらけになるのだ。対応策はすぐに甘いものを食べること。15分位おとなしくしていれば治まる。20年以上経つが、今でも甘いものを食べ過ぎたり食事のバランス悪いとやってしまう。それから胃がない分、腸に負担がかかるので下痢をしやすい。


社会復帰してから2ヵ月後、K原は快気祝いだと、同期入社の仲間を京都に集めてくれた。朝は鴨川で遊び、昼は鞍馬山で牡丹鍋を堪能し、夜は先斗町のバーで語った。忘れられない思い出だ。
学生時代の仲間にも無性に会いたくなり、東京と山梨に行った。
徐々に普通に暮らせるようになって行った。


ガンになって、助けてもらって、自分が変わったことは確実にある。

一つめは、自分が死ぬ事を随分と考えた結果、「死」が以前程、恐くなくなった事。

人間は全員がいつか死ぬ。結局、順番が早いか遅いかだけの違いだ。
そんなふうに考えるようになった。だから冷たい奴と思われる時もある。
早いとは言っても、自分の親より先に死ぬ親不孝はしてはいけませんよ。

まあ、偉そうな事言ったってその場になれば取り乱すかもしれないが。

二つめは家族をはじめ、お世話になっている人々、周囲の人々への感謝の気持ちが強くなった事だ。ガンになる前の自分は、例えば“お金を払ってんだから、ここまでやるのが当然だろ”とか思っていた。
人の道は、そうじゃあないよな。

三つめは生きてること自体が嬉しくなったこと。自転車で風を切って走る、バカ話で笑う、一緒に散歩する、朝日を見る・・・
ホントちょっとしたことが、やたらと嬉しいのだ。
お得な人生になった。

四つめは。戦争は絶対にしてはいけないという事だ。秀吉さんに会うまで、戦争には反対だが、日本が侵略されたら自分も戦うだろうと漠然と思っていた。今の世の中日本で戦争なんて起こらないよ、なんて本当に言い切れるか? 言えないだろう。しかし戦争にならないようにしなくてはいけない。イマジンではないが、ひとりの力は小さくても力を合わせて社会を変えることはできるはずだ。


「ガンになった事は人生で一番ハッピーな事だ」とランス・アームストロングは言った。俺はそこまでは思わないけど、ガンになったからこそ、25歳でやっとこうした事がわかった訳で。
そういう意味でガンになって良かったなと思う。
ランスのように闘病から帰ってきて、偉業を成し遂げた訳ではない。ドタバタと生活しているだけだが、小さな社会貢献はして行きたい。



この話に登場する叔父はその後大腸ガンで亡くなり、同期のK原は3年前に肝臓ガンでアッチの世界に行ってしまった。

今年の春、父が胃ガンで逝った。ガンが見つかった時は既に脊椎にも回っており、余命1年と言われた。しかしそれから3年近くも明るく生きた。我が親ながら立派だった。改めて尊敬した。


いつ死ぬのか、それは近くにならないと分からない。

欲しいもの全てが手に入る人生、それはきっと少数で、皆何かを我慢し引き換えに何かを得て生きている。だが、本心と違う我慢を長くすれば、やらないまま一生が終わる。

やりたい事があるのなら。
時期を待たずにやってしまった方がいい。


了。〈2009/10/18〉