クランクブギ CRANKBOOGIE

自転車と、ブルースと、旅と。

タイ・カンボジア国境、1987

 前年、飛行機の中でカンボジア人の姉妹と知り合った。
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行きたい国ではあったが。当時は内戦が続いており、個人旅行などできる状態ではなかった。その年、ベトナムのホーチミン(サイゴン)にタイ航空が飛ぶという話はあったが、まだ路線便は設定されなかった。

 タイに行くことにした。とても興味のある国だし。
カンボジアに近いところまで行ってみよう。自転車は・・やめておいた。暑さに勝てる自信はないし、ロードレーサーではトラブルが多いだろう。

再びゴールデンウイークに一人旅である。俺は常に一人という訳ではない。
しかし、何かが起こるのは、一人旅だ。

 目的地はアランヤプラテート。カンボジア国境に一番近い街。
国境の警備隊はタイ随一の精鋭部隊なのだと、本で読んでいた。
バンコクから冷房つきの長距離バスで入り、バス停近くの小ぎれいな宿を取った。

 拍子抜けする位のんびりした、普通の田舎街だった。
だが、市場を散策して驚いた。
映画「キリングフィールド」で見た、クメールルージュの制服を着ている人が「普通に」買い物をしていたのだ。それも3組ほど別々に見た。
いーのかよ?と思ったが質問すべき人もいないし、彼等に「あんたらは、同胞を100万人も殺したクメールルージュなんか?」と聞くほどの勇気はない。
英語が通じるとも思わなかったし。だいいち映画の服と一緒なだけでクメールルージュとは限らないもんな。
「そう思う俺が甘チャンなのだ。たとえ彼らがそうだとしても、ここはタイでカンボジアではない。誰でも物資や食料は買うだろう。」と、自己完結しておいた。

 国境まで歩く。赤土の砂利道である。暑い。
シクロやバイクタクシーが乗らないか?と誘ってくるが、歩きたいのだ、というジェスチャーをして断る。運ちゃん達は信じられん!という顔をして去っていく。
かつてはカンボジアまで繋がっていた鉄道の線路が草の中に埋もれているのを見た。
いつか、再び使われる日が来るのだろうか。
30分以上歩くと、国境の国軍基地に着いた。
入り口で自分が日本人であることを告げる。中を見せてくれるか、と尋ねた。
つもりだったが、相手はカンボジア側へ行けるか?とも、とったようだった。
首を横に振られて断わられた。とはいえ、ユルーイ雰囲気である。
彼らにとって俺がちょうどいい暇つぶしネタになりそうなので、すぐには帰らず、タバコを吸ったりなんだり、言葉も通じないのにボディランゲージでしばらくまったりしていた。セパタクローをすぐ近くでやっていた。竹で編んだボールを足で蹴る、バレーボールのようなスポーツだ。空中戦で素晴らしい足技が次から次に繰り出される。
さすが精鋭揃いの国境警備隊! って、関係ないか・・・
感心して見ていると、やってみるか?と誘われた。そンなんできるわけありませんがな。

 さて、街に歩いて帰る。はっきり言って、もう歩くのはシンドイなあ。
と、思っていると、バイクのオジサンが声をかけてくれた。
いくら?と値段交渉しようとすると、いいから乗りなよってジェスチャーをする。
タクシーを生業としている人ではないようだ。
乗ってみる。 風が気持ちよい。いやあラクチン、ラクチン。
快調に進んでいたが、街に近い所でバイクからパスンパスンと音がしだした。
ガス欠だ。
オジサンは道端の、木で作ったテントの前で止めた。みるとビン入りの液体を売っている。
ここでガソリン売ってるんだ。俺が払うことにした。いくらかは忘れた。
オジサンはいや、俺はそんなつもりで乗せたんじゃない自分で払うというようなジェスチャーと共に何か言っているが、こちらもいいから払わせてよと言いつつ・・・オジサンはタイ語、俺は日本語を喋っているのにコミュニケーションできているのが楽しかった。
市場の近くで降ろしてもらった。なぜか同時にお互い親指を立て、ニヤッと笑って別れた。

 夕刻近くになった街には、白人の姿が多くなっていた。
同じ年頃の青年がバイクを修理させていたので、話しかけた。
カオイダン難民キャンプで働いているのだそうだ。それで、外国人が多いのか。
気持ちを持続させるのは、かなりハードな仕事だと言っていた。
実直そうな男だった。今考えれば、初対面の人間にイキナリそんなことを言うのだから、相当参っていたのかもしれない。その時はそれで別れてしまった。後で彼に頼めばキャンプに行けるかもと考え、街で彼を捜したが見つけることはできなかった。

食堂で夕食を食べていると、隣のテーブルに白人女性とアジア人男女のグループが来た。
彼らはキリスト教関係のボランティアで明日、国連の難民キャンプ、サイト2に行くという。
同行を頼むと、リーダーらしい白人女性がOKしてくれた。
「求めよ、さらば与えられん」

 翌朝、待ち合わせ場所に定刻に車が来た。ちょっと意外。
 セブンスデイアドバンティスト教会の一行はアメリカ人の女性牧師と、フィリピン人男性とインドネシア人女性の3名。名前は記録を失くし忘れてしまった。いずれも50代とお見受けした。女性陣は俺を歓迎してくれているが、フィリピン人男性は快く思っていないのがありあり。その方が自然な反応だと思う。失礼のないようにしたい。
 まず市場でキャンプに差し入れする米など食料を買い回る。運搬役をした。最後にインドネシア女性がドリアンを見定め、値切って買った。これは私達のオヤツよ、ということで車の中でいただく。初めて食べたドリアンは、あの匂いが控えめで、でもアイスクリームみたいな味が濃厚で旨かった。そしてこの記憶と連動しているせいか、その後これ以上のドリアンに当たっていない。まっ、二、三度しか食べていないが。
 インドネシア女性は明るい世話好きなオバサンで、セブンスデイは教典に忠実なので安息日の日曜にミサを行わず金曜にするのだとか、いろいろ教えてくれた。そして日本の歌も知ってるわよと、♪ミーヨ、トーカイノソラアケテー〜と歌いだした。
愛国行進曲だ・・・俺が目を丸くしていると、この曲が軍歌だって知ってるけどメロディーが好きなのよ、元気がでるでしょ、と言った。母に教えてもらったのだとも。俺は自分が日本人で、自分も歴史の上に立っているということを再認識した。
車は赤土の平野を結構なスピードで進み、1時間程で難民キャンプに到着した。

 大人から子供まで30人程が集まっているなか、挨拶し、物資が配られた。セブンスデイ一行はミーティングがあるからと、俺は同年代の青年グループにキャンプを案内してもらうことになった。リーダーの名前はチャダイ。ジャニーズ系の顔立ちで賢そうな男だ。
 そして皆、ベトナムの人だった。2週間かけてここまで陸路で歩いてきた。カンボジアにはたくさんの地雷が埋まっている。厳しい道程だったに違いない。

 5人にキャンプの中を案内してもらった。小屋やテントが主な建物だが、町内会や青年部といった組織ができており、小さな街のようだった。ベトナム人とカンボジア人の居住区は、柵で明確に別れていた。歴史的にベトナムとカンボジアはあまり仲が良くない。
 喫茶店でコーヒーを飲もうと誘われた。彼らがおごろうとするのを制して、俺が払った。
その喫茶店は個人経営だと聞いた。店主もベトナムから逃れてきた人だった。キャンプの中でも商売するという逞しさがすごいと思ったが、つまりは持って来ることの出来た財産によって、貧富の差が大きくあるのだ。普通の世間と同じとも言える。
ただし、自由に外には出られない。勝手に出たら殺されるかもしれない。

 俺の英語の発音が良い、どうやったらそうなれるか、と質問された。子供の頃セサミストリートを見ていたから、という本当の事は言わずに、「ベトナム人の子がベトナム語を話すように、アメリカ人の子供は自然と英語を話すよね? それは大人の真似をするから。キャンプにいるイギリスやアメリカ人と話して、彼らの口の動きを真似するのがいいと思う。」とエラソーに答えた。 喫茶店を出て歩きながら、日本の歌を教えてよとのリクエストに「さくらさくら」を歌った。小さな子供達が笑顔で見ている。ついてくる子もいた。

 セブンスデイのミーティングが長くかかるそうなので、家で昼飯を食べる事になった。配給された米と、皆でツナの大き目の缶詰、1個。米はなんと日本の古米を破砕したものだった。ツナ缶を皿にあけて唐辛子とスプーン一杯の砂糖をかけて。キリスト教のお祈りしてから食べた。不味くはなかった。最初に盛られた分でごちそうさまと言った。
 もっと食べなよ、と勧められたが彼らの配給を分けてもらっているわけだから、お腹一杯だよと遠慮した。

 皆は陸路カンボジアを2週間かけて歩きここまで来た。しかしこのキャンプに1〜2年近く留まっている。亡命を望んでも、すぐに希望する国に行ける訳ではないのだった。近く国連のヒアリングがあるということだ。皆アメリカを希望していた。英語ができる事は死活問題なのだ。アメリカは希望者が多く、それが長く待つ要因でもある。亡命先に日本はどうだろうと聞かれたが、日本語はややこしいし、アジアの人を蔑む輩もいるので、やめた方が良いと答えた。20年以上前はそうだった。今はかなり良くなったとは思う。だが不況が続けばどうだろうか? 先日難民の人が増えたので、生活支援の予算が底をついたという報道があったが・・・

 チャダイ達はキリスト教団体に入ってはいるが、それは信心からというよりも、生活や亡命を少しでも有利にするためだと感じた。確かめることはしなかった。
 いろんな話をしていると。それまで口数の少なかった一人がふいに俺を見て「お前は日本に生まれて、幸せだよ」と言った。皆が一斉にそんなこというなよ!と突っ込む。
「その通りだ」俺は静かに頷いた。国が戦争し、その後苦しいのは彼等のせいではない。同様に日本が戦後復興し豊かになったのは俺の力ではない。自分の人生をどのように生きるか、制限されたら? 自由を求めて亡命したのに4キロ四方の場所に2年も閉じ込められたら? しかし、誰しも自分の人生を精一杯生きるものなのだ。他人をうらやんでも何も始まらない。それは、彼の方がよく分かっている。
だが同年代の、お気楽そうな俺に思わず言う彼の気持ちも理解できた。
もちろん全てではないが。

 食事の後はシエスタ。昼寝の時間だ。外は暑い。
自分に習慣がないから寝ることはできず、横になっていろいろな事を考えた。

 昼寝から起きて、さて、どうしよう。そろそろセブンスデイ一行と合流しないとな。
帰れなくなったりして、と思っていたが、慰問の劇団がカンボジア居住区でやっているから見に行こうと誘われ、行くことにした。劇よりもカンボジアの人の居住区を見たかった。
 ベトナム人の居住区は街のようだったが、カンボジア人居住区は農村のように感じた。建物はあまり変わらないのに、ゆっくりした空気が流れていた。国民性の違いなのか。
関西で言えば、せかせかした大阪から奈良に入った時に感じる、ゆったり感、あれをもっと拡大したような。
 女性は丸い顔立ちの人が多く、友人のレイビイに似ていると思った。まあ、同じ国の人なのだから、当たり前だけど。
 
 グランドのような広場で劇が行われていた。
言葉は分からないが喜劇だというのは分かる。オーバーなリアクションに笑い声が起きている。吉本新喜劇みたいに役者が一斉にコケたりしないかな、なんて期待したが、さすがにそんな場面はなかった。
 チャダイがお茶を飲もうという。屋台で俺が払おうとすると今度は皆が口々にさっきおごってくれたから、お返しだよと強く勧められた。プライドみたいなものを感じ、甘えることにした。
 椅子に座るとポリのグラスにくすんだ泥水みたいなのがでてきた。氷の下にはカエルの卵みたいなのが沈んでいる。
うわっ なんやこれ!? と思ったが平静を装って飲んでみた。
甘い。アイスミルクティか? 今ではそれが珍珠奶茶(チンジュナイチャ)だと知っている。カエルの卵はタピオカの澱粉だ。へー、こんなんがあるのかあと感心して飲んでいると、ツンツンとシャツの裾を引っ張られた。
見ると4歳位の女の子が無言で立っていた。これが欲しいのだ。どうしよう、でもおごってもらったものだし…

 俺はその子を無視した。
 何回思い出しても、その子が存在していないように無視した時間が確実にあった。
 5秒から10秒、もっと短かったかも、長かったかもしれない。
 女の子に気づいたチャダイが自分の分を渡した。
 女の子は無言で飲み始めたが、全部は飲まず半分だけ飲んでチャダイに返した。
 

分け合ったんだ。

 自分を恥じた。
  今でも自分の人生で一番恥ずかしいことだ。 穴があったら地球の裏側まで行って隠れたいくらいだった。
 その瞬間まで、外国の同年代の人がどんなこと考えているのか探るのが自分の旅行のテーマだと思っていた。その瞬間まで、自分は買い物や女性目当ての観光客とは違うのだという驕りがあった。
 確かに違うよ。
 困っている難民の人を観光し、そして都合の悪い子供を無視するのだから。
 自分の正体が、よくわかった。

 その後もいろんな話をしたが、俺は固まっていて殆んど覚えていない。そこに帰りの迎えが来た。ベトナム人居住区から出ていたので、かなり探し回ってくれたそうだ。時間がないからと、慌ただしく去ることになった。

 別れ際、チャダイが写真を一枚くれた。皆が写っている。カメラは持っていたがキャンプで撮る気にはなれなかった。左から二人目が彼だ。裏にはwe miss you!と走り書きが記されていた。

 セブンスデイ一行と直接バンコクまで帰る事になった。フィリピン人男性が感想を聞いて来た。俺は感謝を述べ、そして彼は大きく頷いてくれた。拙い英語だが、気持ちは伝わったようだった。

 帰国後、二度程チャダイに手紙を書いたが返信はなかった。
実際届いたかどうかもわからない。

 皆、無事にアメリカに渡れたのかな、と時々思い出す。俺のことはきっと覚えていないだろう。そして俺と同様に、いいオッサンになっているだろう。

しっかり自分の人生を生きているだろうと思う度、俺もきっちり頑張らにゃ、と考える。

了。    <2009/2/11>